「そろそろ、お昼だから、とりあえずはここまでね」
「はい」
お昼休憩まであと二分。時間まで柚羽は真剣に教えていたため、肩がこってしまい、両腕を天井をめがけながら背筋を伸ばした。
「野間口君は、お弁当持ってきたのかな?」
「いえ、今日は何も持ってきてません。社員食堂もあると聞いていたので……」
「そっか。私も社員食堂に行く予定だから案内するね」
雑談をしている昼休みになって、二人で向かおうとしたら営業事務の女性たちが千隼に群がってくる。
「野間口君、今日はお弁当? 社員食堂行くなら一緒に行こうよ」
「私たちのお弁当をお裾分けしてもいいよ」
千隼のせいで、柚羽まで女子社員に囲まれてしまう。柚羽は迷惑そうな顔をした。
「いえ、今から三塚さんに案内してもらうので結構です」
千隼は表情を崩さず、淡々と断りを入れた。
「えー! そうなの? でも三塚さんはいつもひとりぼっちで食べるのが好きだから、野間口君は私たちと食べようよ」
「そうそう! 一緒に食べよう」
女子社員たちは甘ったるい声を出しつつも、言っていることは嫌がらせそのものだ。
「いや、いいです。三塚さんと約束しましたし、貴方たちみたいに香水くさいと食べながら酔ってしまいますから」
さらっと言い放った千隼。
「な、何なの! 三塚さんが野間口君に悪口言ってるから、そういう風に言ったのよね? そうよね?」
女子社員の一人が柚羽を睨みつけながら、強く口に出した。
「三塚さんは悪口なんて一言も言ってません。あくまでも自分の思った感想です」
千隼の一言で、女子社員たちを苛立てしまう。今までの時間が何だったのかと思うほどに、怒った女子社員たちは颯爽と居なくなった。
「よく、あんなはっきり言えたね……」
柚羽は唖然としてしまった。
「香水の匂いがキツイ人、苦手なんです。すみません」
「いや、謝らなくていいよ。私も苦手だからさ」
千隼は、柚羽に頭を下げた。
(この子がはっきり言ってくれたから、私もすっきりしちゃった! いつも何かしらネチネチ言われて我慢してたから)
柚羽は営業事務の女子社員たちが苦手だったので、千隼が意外にも言い返してくれたので、心の中が軽くなった。
千隼は女性顔負けの綺麗な顔立ちをしているので、社員食堂に行っても女子社員から注目の的になるが、愛想がないのですぐに飽きられることになる。唯一、仲良く話していたと言えば、社員食堂の年配女性だった。
千隼の冷静さは時に周囲との距離を感じさせ、まるで独自の世界にいるかのように柚羽は感じた。
『さて、これからが本番だな』と心の中で柚羽は決意を新たにし、千隼に向かって笑顔を見せることにした。
少しでも彼がリラックスできるよう、柚羽は積極的に接していこうと思った。
新しい風を受け入れるために、私自身も変わっていきたいと柚羽は考える。柚羽にとって、これから千隼と一緒に過ごす時間が、どんな展開を迎えるのか、楽しみでもあり、不安でもあった。
何日か後、再びのオフィス内。柚羽はあくびをしている。彼女の心の中では、面倒な日常に対する不満が渦巻いていた。
千隼は相変わらずのポーカーフェイスで、ちっとも笑わない。仕事の話は真剣に聞いてくれているが、柚羽は退屈だった。
(ダルいなぁ。新人の面倒も見なきゃいけないし……)
そんな風に思っていると、浜野部長が柚羽に声をかけてきた。
「大きなあくびだね。眠いのかな?」
「あ、ぶ、部長……! ね、眠くない、ですよ?」
浜野部長は嫌味を言ってきたが、柚羽は慌てて否定をした。
「今日は新商品の案内を回ってもらう。三塚さんが、野間口君に営業先と担当の方を紹介してあげて」
「はい、分かりました」
柚羽は少しうんざりしながらも、返事をする。心の中では、あぁ、また面倒だな……と思っていた。
浜野部長は親戚に不幸があって帰らなければいけないらしく、アポイントは取ってあるのでと柚羽はお願いされる。
柚羽がお願いされた営業先は、大手スーパーマーケットチェーンの本社である。以前、柚羽は浜野部長と共に行ったことがあるのだが、そこにはネチネチしたおばさんが居たことを思い出す。
(あそこは浜野部長が行っても、なかなか新商品を取り扱ってもらえないんだよね……。しかも、味がどうとか何かとうるさく言ってくるし。商品扱う代わりに、こちらのメリットが~とかも言ってくる。メリットって言われても、私には全く関係ないのに……)
柚羽は溜め息しか出てこなかった。
千隼と一緒に大手スーパーマーケットチェーン本社に出向いた柚羽は、浜野部長がアポイントを取り付けていたことを受付で伝えた。
(いいなぁ。華やかで……。私も以前までは、こういう場所に居たのになぁ)
柚羽は受付係を見ては、羨ましく思ってしまう。
ネットスーパーも運営しているこの大手スーパーマーケットチェーンへ新商品の案内をしに行くことになった柚羽は、ここの本部長が口うるさくて嫌いだ。
新商品が出ても味見をする前から、『こんなのは売れない』と言われ、取り扱いをしてくれることはほとんどなかった。そのため、受付係から立ち入ることへの許可をもらっても、柚羽の足取りは重かった。しかし、同僚の千隼は何も気にせずに先へ進んでしまう。
「さぁ、行きましょう!」
やる気満々なのか、珍しく千隼が明るく声を上げた。
柚羽は慌てて追いかけ、「ちょ、ちょっと勝手に行かないでよ!」と声をかけた。
柚羽の心の内では、どうせ新商品は取り扱ってもらえないのだから、行く意味があるのかどうか疑問に思っていた。
面倒な仕事への葛藤が続いていた。周囲の忙しさと、同僚たちの活気に圧倒されながら、柚羽は一歩一歩進むしかなかった。いざ、本部長の居るオフィスフロアに案内されたが、柚羽はガチガチに緊張していた。