千隼から告白されるなんて、思っても見なかった柚羽はどうしたらいいのか分からなかったが、オフィス内では何事もなかったように振るまおうと決めた。
平然とした態度をとっていないと、周囲にバレてしまうかもしれない恐怖があったから。
(千隼の気持ちは嬉しかったけど、答えることはできないから……。それに、千隼が言ってることは、初恋みたいなものだから、そのうち、目が覚めるでしょう)
柚羽は、自分に言い聞かせる。
その後も仕事は忙しく、会議や電話応対に追われていた。柚羽は自分のデスクに向かい、パソコンの画面を見つめる。目の前の資料に集中しようとするが、頭の中には千隼の言葉がぐるぐると渦巻いていた。「好きです」と告げられた瞬間の、心臓の高鳴りが忘れられない。
同僚たちが談笑している声が耳に入る。柚羽はその声を聞き流しながら、自分の気持ちを整理しようと試みた。しかし、心の奥底で何かがもやもやしている。千隼の真剣な表情が、その横顔が、ふとした瞬間に脳裏をよぎる。
(どうしてこんなことになってしまったの?)
心の中で自問自答を繰り返す。最近では恋愛とは無縁の生活を送っていた柚羽にとって、千隼の告白はまるで夢のような出来事だった。自分に自信が持てない彼女は、千隼の気持ちを受け入れることができない。
そんな中、ふと窓の外を見やると、青空が広がっていた。穏やかな風が吹き抜け、心が少しだけ軽くなる。柚羽は思わず深呼吸をし、気持ちを切り替えようとした。仕事に集中しなければ。だけど、心の片隅で—彼女は千隼のことを思い出さずにはいられなかった。
数日後──
「おめでとう! 新商品の契約数は、今のところ三塚さんと野間口君のペアがトップだ」
「ありがとうございます!」
営業部の朝会で、柚羽と千隼は表彰された。
周囲からの拍手が響く中、柚羽の心は嬉しさでいっぱいになった。
表彰されたからといって特別な賞品があるわけではないが、万年最下位の柚羽にとっては、これまでの努力が認められた瞬間だった。彼女の顔には自然と笑みが広がり、次第に目が輝きを増した。
千隼のおかげで柚羽の営業成績も上々になり、上司に褒められたことで、自信が芽生えてきた。普段は冷静沈着な彼が、彼女のために力を尽くしてくれたことを思うと、心が温かくなった。
「さて、今日も営業に行きますか!」と、柚羽はいつになくやる気を出して、バッグを片手に持って営業部を飛び出す。彼女の心には、成功の余韻が残り、次のチャレンジに向けた期待感が膨らんでいた。
「三塚さん、待ってください!」と、後ろから声がかかる。千隼は慌ててビジネスバッグを持ち、柚羽に追いつこうとした。
「置いて行かないでください!」
千隼の仕事への真剣さが見て取れ、柚羽はその真剣な表情に少し心を奪われた。
ふと、彼女の心に浮かぶのは、千隼と一緒にいる時の居心地の良さだった。
柚羽は自分の中の期待が膨らむのを感じた。千隼とともに挑む営業が、これまでとは違った味わいをもたらしてくれる気がしているから。
軽やかな足取りで、柚羽は彼の隣を歩く。
「今日からは新商品の業務用を営業しに行くの。チェーン店みたいな大きい規模のところは部長や課長とか偉い人に任せて、私たちは個人経営の居酒屋やカフェとかに行くんだよ」
「そうなんですね」と千隼は素直に頷く。
「私が以前に獲得したお店以外にも、新店舗も回ってみようと思う」
「分かりました」
柚羽が提案すると、千隼の目はキラキラと輝いていた。その姿を見た柚羽は、新しい冒険が始まるような気分になった。千隼の仕事への情熱が、周囲の空気を一変させているように感じ、柚羽は自然と背筋を伸ばした。
彼の自信に満ちた態度が、柚羽自身のモチベーションをも引き上げる。
オフィスを出ると、心地よい風が二人を包む。
柚羽はバッグを肩にかけ、少し早足で歩き出した。千隼はその後ろを追いかける形で、彼女の姿を見つめる。
「最初に行くお店は、あの路地の奥にある居酒屋だよ。もう少しだけ歩くよ」
柚羽は前を見ながら言った。行き先を決めたことで、顔にはさらに生き生きとした表情が浮かんでいた。
「営業、頑張ろうね」
柚羽が振り返り、少し笑顔を見せると、千隼も思わず微笑んだ。
柚羽には見慣れた風景を背にしながら、お馴染みの営業先へと向かう。このあとの営業先はノープランなので、千隼と共に新規開拓をしようと柚羽は思っている。
心の中に期待と不安が交錯する中で、柚羽は新たな一歩を踏み出す瞬間の高揚感を味わっていた。千隼と共に歩む一歩一歩がどんな冒険になるのか、柚羽の胸が高鳴る。
営業に行く柚羽の足取りは今までにないくらい軽く、浮き足立っているかのようだった。彼女の中には、朝会での表彰から得た自信が満ちあふれ、まるで新たな風を受けているかのようだ。
千隼がいると、自然の流れのように契約も取りやすく、彼とのコンビはまるで運命のように感じられる。
今日は良い日になりそうだ、と心の中で呟きながら柚羽は外回りを続けた。街の景色が新鮮に映り、普段は気にも留めない小さなお店や明るい看板が、今は特別な魅力を放っているように感じていた。柚羽の心は高揚し、千隼との仕事がもたらす楽しさに溢れていた。
そんな中、柚羽は千隼にある提案をしたいと考えた。それは、ランチを奢ること──
隙間時間に、お昼休憩をすることになった。
「ランチは何を食べる? たまにはお蕎麦とかどう?」
「いいですね!」
千隼は柔らかい笑みを浮かべた。千隼の反応が嬉しくて、柚羽の目もキラリと輝く。
「今日は、トップになった記念に私が奢るからね!」
「それは……ありがとうございます」
柚羽は、いつもご贔屓にしている営業先の蕎麦屋に千隼を連れて行った。二人は路地を抜け、賑やかな通りに出る。
店先が見えてくると、柚羽は少し緊張しながらも期待で胸がいっぱいになった。この店の味を、千隼にも楽しんでもらいたいという思いが強かった。
「いらっしゃい、柚羽ちゃん。あれ? 今日はイケメン君も連れて来たんだ?」
蕎麦屋に着くと、柚羽と仲良くしてくれている中年の男性店長が明るく挨拶をしてくれた。その声に、柚羽はすぐに安心感を覚えた。
「そうなんです! ついに私にも後輩が出来たんですよー!」
柚羽は嬉しさを隠さず、千隼を紹介する。彼女の声には、彼への誇らしさが込められていた。
店長は千隼を見ながら、「いい若者だね。今日は特別に、サービスをつけてあげるよ」と言って、にこっと微笑んでウインクした。
千隼は少し照れくさそうに、「ありがとうございます!」と応えた。千隼の素直な反応に、柚羽はまたしても心が温かくなり、彼と過ごすこの瞬間が特別なものになる予感がした。
二人はテーブルに着き、メニューを見ながら楽しそうに会話を交わした。柚羽の心には、千隼とともに新たな経験を重ねるワクワク感が広がり、彼との距離が少しずつ縮まっていくのを感じている。
「次の営業先に行く前に、トイレに行って来ます」
「分かった。待ってるね」
食事が済んだ千隼がトイレに行くと言うので、自分の分がまだ食べ終わっていない柚羽は席で待っていた。
(店長の揚げる天ぷらはサクサクで美味しいし、お蕎麦も美味しい!)
柚羽は味を噛み締めながら、食べていた。少ししてから、「戻りました」と千隼が来る。その時には、柚羽は食べ終わっていたので、店を出ることにした。