「ご馳走様でしたー! 美味しかったです。これ、おつまみの新商品です。よかったら見るだけでも……」
柚羽は満足げに言う。
「柚羽ちゃんは商売上手なんだから!」と店長が笑顔で返すと、柚羽は照れくさそうに「ありがとうございます」と小さく笑った。その言葉には、彼女の努力が認められた喜びが込められていた。
店長は業務用のおつまみの新メニューをじっくり見ながら、アレンジ次第でさらに美味しくなると言い、一種類を契約すると言ってくれた。
柚羽は心の中でガッツポーズをして、これまでの苦労が報われた瞬間だった。
「店長、お支払いはいくらですか?」と柚羽が尋ねると、店長はにっこり笑って「大丈夫だよ。イケメン君が払ってくれたから」と言った。
「え? そうなんですか?」
柚羽は目を丸くした。驚きつつも、柚羽は千隼をちらっと見ると、まるで当たり前のことをしたかのような顔付きをしている。
「うん。だから、大丈夫なんだよ。また二人で来てね! 新商品をアレンジしたメニューも食べてもらいたいからさ」と店長が言うと、柚羽は感謝を込めて「ありがとうございます!」と答えた。
契約が取れて嬉しい気持ちと同時に、千隼に支払いをされてしまい少し悔しい気持ちも湧き上がった。また先を越された……と心の中で柚羽は思った。
「また来てよね!」と店長が笑顔で見送る中、柚羽は千隼から目を離せなかった。
柚羽が奢るはずだったのに、いつの間にか千隼が支払いをしていたなんて。歴代の駄目彼氏とは違い、彼のスムーズな対応に柚羽の心はキュンとしてしまう。
一瞬、そんな彼に恋をしてしまうかもしれないという不安が彼女の心に広がった。しかし、柚羽はすぐに思い直した。
(駄目、駄目! この子に恋はしちゃいけないんだから)
柚羽は、自分に言い聞かせる。
仕事に集中しなければならないし、千隼との関係を複雑にしたくなかった。
柚羽は気持ちを整理しようするけれど、歩きながらだと難しい。最近は千隼と過ごす時間が楽しくなってきた柚羽だったが、今は仕事が最優先だと自分に言い聞かせる。彼との関係が仕事に影響することは避けたかった。
仕事を通じて彼との信頼関係を築き、良いパートナーシップを育てることが、今の自分にとって最も大切なことだと改めて感じる。
(やっぱり、私が先輩なんだからしっかりしなきゃ駄目だよね! 言いたいことは言わなくちゃ!)
柚羽は、拳にぎゅっと力を入れて気合いを入れる。
「あのさ、今日は私が奢るって言ったでしょ」
柚羽は不満を込めて言った。
「はい、言ってましたね」
千隼は淡々とした口調で答えた。
「じゃあ、何で先に支払いしたの?」
柚羽は更に食い下がった。
「今日は、三塚さんがトップになったお祝いです」
千隼の言葉には、誇りと喜びが混じっていた。
「だって、野間口君が居たからトップがとれたんだよ? 大半が野間口君のおかげなんだからね? 私一人だと駄目すぎるんだから……!」と、柚羽は思わず声を大にした。自分の努力が報われたとはいえ、謙遜の気持ちが強く、心の中では自己評価が低かった。
「そんなことありませんよ。三塚さんはしっかりと仕事してますから」と千隼は優しい声で言った。彼の態度には、真剣な励ましが隠されていた。
「お世辞言っても何も出ないからね!」
柚羽は少し照れくさくなりながらも、笑いを交えた。心には、千隼の優しさがじわりと染み込んでいくようだった。
二人の間に流れる空気は、少しずつ柔らかくなり、温かいものに変わっていった。周囲の喧騒が遠く感じられるほど、二人は会話に没頭していた。
千隼の言葉は柚羽の心に自信をもたらし、彼女自身も認められていると感じさせた。
「それに、今日はお祝いなんだから、素直に受け取ってください」と千隼が続けた。
「うん、そうだね。ありがとう!」
千隼の言葉に励まされ、少しだけ心が軽くなった。
これからも一緒に仕事をしていく中で、互いを支え合う存在になれたらいいなと、柚羽は密かに願った。彼女の心の中で、千隼の笑顔がその願いの象徴のように浮かんでいた。
歴代の駄目彼氏に比べて、千隼のスムーズな対応には、柚羽の心が自然とキュンとしてしまったのは事実だ。これまでの彼氏たちにいつも不安や苛立ちを抱えていた彼女にとって、千隼の落ち着いた振る舞いは新鮮で、どこか安心感を与えてくれた。
しかし、柚羽はすぐにその思いを振り払った。
恋はしちゃいけないんだ……と自分に言い聞かせる。
仕事を優先しなければならないし、自分の感情に流されてはいけないことは、これまでの経験から学んだ教訓だった。
千隼の優しさが柚羽の心を揺さぶるたび、ますます意志が固くなっていく。彼との関わりが、仕事に悪影響を及ぼすことは避けたいのだ。
それでも、千隼の存在が日常の中で特別なものになっていくことを感じていて、彼との会話や笑い合う瞬間が、心の中で小さな光となり、少しずつ彼女の日々を彩っていく。柚羽はそのことに気づきながらも、意地を張って自分を守ろうとした。
これ以上、気持ちが大きくなったらどうしよう……と不安が胸をよぎる。柚羽は自分の感情を抑え込むために、意識的に距離を置くことを選んだ。それが彼女にとって、最も安全な選択だった。
お得意様に新商品の案内をするのも、落ち着いてきた頃。
柚羽は二回も千隼から奢ってもらっているので、これ以上の借りを作らないためにも、何かしらのお返しはしたいとデスクワークをしながらボンヤリと考えていた。しかし、社員食堂のランチを奢るにも、基本は弁当持ちの千隼なので、それもできない。
「どうしたらいいんだろう……」
柚羽はデスクに向かいながら、ボソッと呟いて頭を悩ませる。
事前に一週間や二週間くらいは営業の外回りのスケジュールを作成しておくのだけれど、しばらくは新商品が出ないため、新規開拓の契約店を探すのは店のランチ時間が終わった午後が多い。なので、外でのランチはほぼしないのだ。
午前中は、資料作りや事務作業に追われ、あっという間に時間が過ぎていく。お昼休憩を挟んで、再び外回りのスケジュールが待っている。柚羽は自分の仕事の状況を考えつつ、何かできることはないかと模索する。
(そうか! 一緒に行かない前提で、ギフトを送ればいいんだ!)
柚羽は、コーヒーショップのスマホから送れるギフトをしようと思い付いた。
思いついたアイデアをもとに、柚羽は休憩時間に送ろうと思った。
これで少しでもお返しができるといいな……と、柚羽は心の中で願った。どんな形であれ、千隼から受け取ったお礼をしたいと思う気持ちが、彼女を動かしていた。
(そういえば、電話番号は知っているけど、メッセージアプリのIDは知らなかった。知らないと送れないだろうし、どうしようかな……)
せっかく考えたのに、また考え直さないといけないといけないと柚羽は思った。かといって、一緒に行って奢るというのは論外だ。なるべくなら、接触しないようにしないと柚羽は決める。