「実家の方にも店がありますが、実は一度も行ったことがありません」と、千隼は恥ずかしそうに告げた。その口ぶりには、どこか照れくささが滲んでいるような気はするが、柚羽は驚いた顔をしてしまった。
「え、そんなことあるの? お店がないならともかく、一度も行ったことがないなんて……!」
思わず声を上げてしまう。柚羽の心のどこかで、千隼の実家周辺に対する興味が広がっていた。
「友達とも?」
柚羽はさらに尋ねる。
「……はい、ないです。実家の近くに店がありますが、車で一時間先とかなので行ったことはないんです。そもそも、そのためだけに出かけないですから」
千隼の言葉から、少しの寂しさが感じられた。
(ち、近くで一時間……!)
柚羽は千隼の実家が東北にあると聞いていたが、自分が思っているよりも失礼ながら田舎かもしれないと感じた。
周りには自然が豊かで、静かな環境だろう。だが、そこには友達と訪れるような華やかさはないのだろうと。
「一度は友達と行ってみた方がいいんじゃない? 野間口君はコーヒー好きだから、きっと気に入ると思うなー」
「そうですね、でもなかなか友達と会う時間が取れなくて……」
千隼は少し困ったように笑う。
「今度、実家に帰って、みんなでドライブとかに行く機会があったら、行ってみたらどう?もしかしたら、新しい発見があるかもしれないよ」
柚羽が続けると、千隼は頷いた。
「確かに、友達とドライブがてらに行くのも楽しそうですね。考えてみます」
千隼は少し前向きな顔を見せた。柚羽の提案が、千隼の心に響いたのかもしれない。
電車の揺れに合わせて、二人は千隼の実家周辺の話に花を咲かせた。
「東京みたいに何でもあるわけではないですが、生活圏内には本屋とかカラオケとかコンビニはありますよ」
「そうなんだ! じゃあ、コーヒーショップもありそうだけどねぇ?」
「それは、ないです」
千隼の実家の周辺についての話は、彼の新たな一面を知るきっかけでもあり、柚羽にとってもわくわくする時間だった。次第に千隼の笑顔がどんどん明るくなっていくのを見て、柚羽も嬉しくなっていった。
「あ、でも……友達と行くのもいいですが、ギフトの期限内に会えるか微妙です」と不安そうに千隼が言う。ギフトの使用期限は三ヶ月だ。
「三塚さん、一緒に行ってもらえませんか?」
「……」
そんな返事が返ってくるとは思わず、柚羽は目を丸くした。
「きょ、今日は忙しいから無理なの」
柚羽は困ったように言う。予定もないくせに、思わず断りを入れてしまった。
「いつでもいいです。仕事帰りとか……何なら、ランチにでも」
「まぁ、外回り先のランチならいいけど」
柚羽は少し考え込んだ様子で答えた。
「本当ですか? よろしくお願いします!」
千隼は嬉しそうに目を輝かせた。
「じゃあ、次の外回りの時にでも行こうね」
柚羽が言うと、千隼は大きく頷いた。
「楽しみにしています!」
千隼が心から笑顔を見せた時、柚羽の心が温かくなる。
後日、約束通り営業の外回り中に柚羽と千隼は有名コーヒーショップに行くことになった。
「トールとかグランデとか……サイズが難しいですね」
「そうだね。でも慣れれば大丈夫だから」
柚羽は得意気に言った。
千隼は初めての有名コーヒーショップに緊張していたが、柚羽は笑顔でリードした。
(いつも野間口君に支払いとかの先を越されているけれど、今日は私の方が優勢だよね)
戸惑っている千隼に代わって、柚羽は気分よくレジ前でスムーズにオーダーする。
柚羽はソイラテ、千隼はスタッフおすすめのコーヒーを注文し、窓際の席に座った。
「三塚さん、ご馳走様です。買い方も教えてくださりありがとうございました!」
千隼は丁寧に頭を下げながら、柚羽にお礼を伝えてきた。
「いいよ。こちらこそ、いつもありがとう」
柚羽はいつも千隼にご馳走になっているので、そのお礼だということも伝えた。
「何だか、緊張します。カフェとはまた違った雰囲気な気もします。ビジネスマンも多いんですね」
千隼は緊張していたようだが、柚羽は穏やかな会話を振りかけて少しずつ緊張が解けていったようだ。
店内のコーヒーの香りと穏やかな雰囲気の中で、二人は仕事の疲れも癒されていく。
「他にも行ってみたい場所がたくさんあります」
突然として、千隼が言った。
「え? 例えばどこ?」
柚羽は興味津々で尋ねる。
「オシャレな古着屋とか、洋服屋。あとは営業用に歩きやすいオーダーメイドができる靴屋にも行きたいです」
千隼は楽しそうに答えてくる。
「そうなんだ、いいね!私も古着屋さんは行ったことないよ。古着屋は特に面白そうだね」
「でも、一人では行けなくて……」
千隼は少し寂しげに言った。
「東京に友達は居ないの?」
「居ますけど、忙しいからなかなか会えません」と言いながら、千隼は肩をすくめた。
「そっかぁ、それは残念だね」
柚羽は同情の気持ちを表した。もしかしら千隼は、寂しい生活を送っているのかもしれない。
「いつも会っている方の中では、三塚さんしか仲良くしてくれないので、今度一緒に行ってください」
千隼はコーヒーを飲みながら、急に真剣な表情で言った。
「は?何で?」
柚羽は驚き、千隼の言葉に戸惑う。
「だって、三塚さんといると楽しいから」と千隼は恥ずかしそうに続けた。
「俺も行ってみたいですし、何よりも……一緒に行けば、もっと素敵な思い出ができると思うんです」
「はぁ……」
千隼がたまに見せる無邪気な笑顔に弱い柚羽だが、流されてはいけないと思った。
「私は、お子ちゃまに付き合って遊ぶほど、暇じゃないの。それにカッコイイ男性を目指してるなら、オーダーメイドの靴屋さんにも一人で行きなさい! 野間口君なら一人でも大丈夫だから」
柚羽は毅然とした口調で言った。
千隼は少し驚いた様子で「そう……ですね。一人で何でもできないと、三塚さんに一人前の男だと認めてもらえないから」と返す。
「いや、認めるとかじゃなくて……」
柚羽は少し戸惑った。自分の言葉が、千隼を変に煽ってしまったことに気づいたから。
「俺は三塚さん一筋だから、三塚さんに冷たくされても試練だと思って頑張りますね。背伸びしてるとか言われないように、オーダーメイドの靴も似合う男になります」
千隼は意気込んだあと、残りのコーヒーを飲み干しながら、自信に満ちた表情を浮かべた。
「……そう。私なら、ギフトを送られたら、額面いっぱいまでカスタマイズしたりするけどね。普段は飲めない、お高いコーヒーを飲んだりして……」
「え? カスタマイズ?」千隼は興味津々で反応した。
「そうよ。そういうのも、ちゃんと自分で調べるの。仕事と一緒でしょ」
柚羽の言葉には、自分の嗜好を楽しむことへのこだわりが込められている。
「なるほど、ちゃんと自分のために時間をかけるってことですね」
千隼は頷いた。彼は柚羽の言葉から、ただの努力だけでなく、楽しむことの大切さも学んでいるようだった。二人の会話は、少しずつ深まっていく。
「三塚さんに認めてもらえるように頑張りますね」
千隼の言葉には、どこか前向きな響きがあった。柚羽は彼のその姿勢に少し安心し、彼が自立する姿を期待する気持ちが芽生える。二人の関係は、一歩ずつお互いを理解し合う方向へ進んでいるような気がする。
柚羽は千隼のことを男性としては見ていないものの、自分に懐いているので何だか放っておけない部分もある。好きになるなんてないだろう……と現在は思っている。
千隼は、柚羽にとって子どもに見えてしまうからだ。年の差のせいなのか、自分が年下を恋愛対象として受け入れられないだけか……。柚羽は少しだけ、溜め息をついた。