裏業は部屋に戻ると布団を出し、そこに座るよう水埜辺を促した。
「えっと……裏業ちゃん? これは……」
「体が辛いんだろう? 少しでも横になってくれ」
「……優しいなぁ、裏業ちゃん。あ、刀ありがとう」
裏業は水埜辺から朝凪を受け取る。あれだけ噛まれていたのに朝凪は刃こぼれひとつしていなかった。
年代物だからか、はたまたなにか別の力があるのか。
とにかく今はどうでもよかった。水埜辺を少しでも長く、休ませたかった。
「……あの妖怪憑という門番は
その言葉を聞くと水埜辺は目を見開いた。
「なんでそれ……。……! それよりも、その手、どうしたんだい? 傷が深いようだけど」
裏業はそう言われてハッとする。傷と聞いて右掌を確認すれば、巻いていた手拭いには血がこれでもかというくらい滲んでいた。
「大丈夫だ。これくらい、なんでもない」
「そうは見えない。裏業、こちらへおいで」
水埜辺は優しく
体勢を崩した裏業は水埜辺に抱きかかえられるようにして倒れた。そして右手首を掴まれたまま動けずにいた。ドキドキと、心臓の鼓動がうるさい。体の内側から耳にまで響いてくる始末。早く、早く治まってくれ、と彼に聞かれないようにと願うばかりだった。
――…………
「――⁉ ちょ、ちょっと、なにす、」
「少しだけ、我慢。な?」
水埜辺は掴んだ裏業の右手首を口元に持っていき、そのまま掌を舐め始めた。彼の荒れた呼吸が時々掌に吹きかかり、くすぐったい。
一回、二回と彼は傷部分に口を付ける。始めは、何故このようなことをされているのか、理解ができなかった裏業だったが、少ししてその意味をやっと知ることになる。
「……はぁ……。裏業ちゃん。もう痛くないだろう?」
「え?」
言われて初めて気が付いた。ゆっくりと水埜辺は裏業の右手首を放した。裏業は舐められた右掌を確認する。すると、先ほどまで滲み続けていた血が止まっていた。さらには痛みも消えていた。
「あー、やっぱり力が足りなかったか……。ごめん、血を止めることだけで精一杯だったみたいだ」
「これ……」
「そう。俺の不思議な力、ね」
不思議な力――きっとそれは、彼が人間でないことを公言したことと同意だった。ズキン、と裏業の胸の奥が疼いた。
「それは、どういう……。……奴良野殿?」
水埜辺に声を掛けるが、彼は俯いたまま何も応えない。不安になり、裏業は思わず彼の肩を数回揺すった。
「いかがした? 奴良野殿? ――奴良野殿⁉」
ふらり、と彼の身体が後方へと倒れた。布団を敷いていたので頭を畳にぶつけることはなかったが、その表情は険しい。気を失っているが呼吸が増々荒くなっている。発熱しているのだ。苦しそうな彼を布団に寝かせること以外何もできないことに、裏業は悔しく思うばかりだった。
ドゴン、ドゴン、と玄関から大きい音が響き渡る。先ほどの門番が札の効力など無視して力の限り戸をこじ開けようとしているのだろう。一体どうすればいいのか分からず、せめて彼だけは守り切ろうと自室の襖前に座り朝凪を抜く。その瞬間、バキッ! という嫌な音が聞こえた。
――来る!
何が何でも、彼だけは守らなければ。
ずり、ずり、ずり……と、少しずつ大人ひとり分の足音が近づいてくる。ついに、部屋の前に敵がやってきた気配がした。男の影が裏業の恐怖心を支配した。無意識に朝凪を握る手に力がこもる。
戸に手が掛けられ開かれようとしたその時、一匹の蝶が部屋に舞い込んだ。淡い青色の羽を持つ、妖艶で美しい蝶々だった。
刹那、蝶が人間の形に姿を変える。美しい容姿の女性だった。
青い着物を身に纏い、腰には女性には扱いづらいであろう大太刀が携えられている。彼女はふわりと裏業の目の前に立ち、そして振り返ったかと思えば腰に差していた大太刀を抜刀し、戸の向こうにいたであろう妖怪憑に向かって振りかぶった。
「ぐ、ぎゃああああ‼」
門番は右肩から左脇腹にかけてその大太刀で斬られ、その場に膝をついた。門番の傷口から赤い血液が溢れ出る。門番はそのまま床に倒れ込み動かなくなった。
蝶人間はといえば静かに大太刀についた門番の血を、着物の懐から拭き取り紙を出し綺麗に拭き取る。新月ではあるが、外の光が彼女を照らして青の妖艶さが増す。血を拭き取った後、蝶人間は裏業を確認すると、ゆらゆらと近づいた。
しかし敵なのか味方なのかも分からない彼女をこれ以上こちらに近づけてはならないと、裏業は本能的に感じていた。裏業は蝶人間から視線を外さず、背後に水埜辺を守るようにしながら朝凪に力を入れる。
その姿を見て彼女は首を傾げて裏業を不思議そうに見つめた。無表情なゆえ、何を考えて今彼女が目の前に立っているのかは分からない。
それなのに、どうしてだろうか。
見つめられると、不思議と体の力が抜けていく。青が裏業の視界に入る度、魂を吸い取られるようだ。
「……あなたは……?」
「しぃー…………」
「え?」
やっとのことで絞り出すことの出来た言葉は、彼女の人差し指によって制される。物腰柔らかく彼女はゆっくりと裏業の背後に倒れている水埜辺の傍らに座った。彼女は苦しそうにしている彼の頭を自身の膝の上に乗せ、額を撫で始めた。
すると、先ほどまで小刻みに震えていた水埜辺の身体が段々と落ち着いてくる。その姿を確認すると裏業は彼女が何者であったとしても敵ではないと認識し、少しだけ安心した。
「……ごめんなさい。驚かせてしまいましたね……」
彼女から発せられる声は、まるで透き通るような音をしていた。
妙に心地のいいものだったので一瞬、話しかけられていることに気が付かなかった。
「あの……」
「――おいおい、こりゃ久々に怒ったな。人間の血とか勘弁してくれよ。
「お手数掛けます、水伊佐」
「……ちっ」
何度か面識のある男――水伊佐は彼女のことを『母上』と呼んだ。よほど癪に障ったのか水伊佐は母親に向かって舌打ちを打つ。彼女は怒るでもなく、ただ申し訳なさそうに笑っていた。
「……母上、兄上を彼岸に連れて行く。いいな」
「はい。お願いします」
そして外に出たと思った瞬間には、彼らの姿は消えていた。
「わたくしも、そろそろ行かなければなりません。お邪魔しました」
「いえ。助けていただいて、ありがとうございました」
「……いいえ。こちらこそ、
「息子……?」
彼女の見た目はおそらくまだ二十代。若い容姿のくせにあんなに大きな息子がいるとは驚いた。
が、思えば水埜辺は妖怪――だと思われる。まだ確信には至っていない――。ならば母親もその類と思って間違いはない。
流れる時間が違う。そう考えるのが自然だと思った。
さらに裏業は彼に関して色々なことに対しての順応力が付き始めていた。その能力に気付いた時、裏業は自分自身に幻滅した。
「あ、あの!」
「?」
「私も彼が心配です。彼岸……に、連れて行ってはもらえないでしょうか?」
どうしてこの時裏業は彼岸に行きたいと申し出たのか。それはただ純粋に水埜辺のことが気になったからである。しかし人間である自分に再度彼岸に行くことができるのだろうか。その考えは彼女にも伝わっているようで、少し怪訝そうな顔をした。
「……我々の住む彼岸は人間にとって毒に等しい場所。危険です。最悪の場合死に至ることもあります」
「それでも私は! ……私は……。どうしてこんな事を思うのか、分からないけど、彼のことがどうしても気になるのです」
これは裏業の意志。
彼岸に行ったことで例え死んでも構わないという彼女の覚悟を表していた。
「お願いです。私を彼岸へ、連れて行ってください」
彼女は少し表情を渋らせる。一瞬、彼女の目が裏業の腰元にいく。何を見られているのか、と思えばそれは朝凪だった。すっと彼女の目が、無いはずの月の光にも似た眼光をもたらした。その眼光の鋭さに裏業は
「……そこまで仰るのなら、仕方がありませんね。いいでしょう。――ただし、あなたには
「は?」
その鋭き光は裏業の目の前を一瞬のうちに赤く染めた。