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第27話 奴良野邸と彼の秘密

 彼岸とは――。

 現世の此岸とは違い、簡単に言えばあの世である。

 死者が住み、人ではない者が住む世界ゆえに生きた人間はまず辿り着くことも叶わない。

 ただし、ある、例外を除いては。


 ❀


「死んでいただきます、と言われた時は……いささか驚きましたが……」

「わたくしの血の臭いがあれば、彼岸もあなたのことを生きた人間とは認識しないことでしょう。臭うかもしれませんが少しだけ辛抱してくださいね」

「いや、それは構わないんですが……」


 彼女――碓氷うすいは裏業に笑い掛ける。

 裏業の目の前が赤く染まった時、裏業は本当に死んだのだと思った。ビシャリ、と聞いたことのある耳障りな音が裏業の脳裏を掠めたが痛みは無かった。薄っすらと目を開けば着物中に彼女の右腕から滴る血がばら撒かれた。

 いつもであれば吐き気のする色でも今は嫌な感覚など無かった。それはひとえに花のような甘い香りが血液からしたためだろうか。


「……人間の臭いに惹かれて、あの世の者たちがあなたのことを食べかねないので妖怪であるわたくしの血を纏っていただいたという形ですね」

「……でも、どうして彼岸に連れてきてくださったのですか?」

「あなたが懇願したからでしょう?」

「それだけではないと思って」

「…………似ている、と思ったのです」

「似ている?」

「息子の、友人に」


 そう話す碓氷の表情はどこか沈んでいた。それ以上は、何も聞けなかった。



 周りを気にしつつ碓氷に付いて行くと、ふと彼女が足を止めた。


「……着きました。ここが、我々奴良野一族が住まう、彼岸の屋敷です」


 辿り着いたのは大きな二本松のなる、桔梗宮邸にも劣らない広い屋敷だった。こちらの世界では裕福な家庭なのかとも思ったが、とても質素に暮らしているようだ。同時に、彼らは妖怪としてのある程度の地位を持っているのだと裏業は感じた。


 そしてこうも思った。知らないはずの土地なのに、どこかこの場所が懐かしく思える、と。


 水埜辺に触れられた時の緊張とはまた違う緊張感が漂う。どくどくと心臓の音がうるさかった。

 奴良野邸に足を踏み入れると、ちよちよと小さな鳥たちが裏業たちを出迎えた。パサパサと羽を大きく広げている姿がなんとも可愛らしい。が、その眼差しが少し痛い。


「……? 私が何か持っていると思っているのか?」


 なかなか足元の小鳥たちはその場から去ってくれない。困っていると前方にいた碓氷が振り向き「ああ……。きっとわたくしの血の臭いがあなたからしているからでしょう。小鳥たちはあまり目が見えていませんので臭いでわたくしたちを判断しているのです」と裏業に淡々と告げた。


「そ、そうなのですね。ご、ごめんね、少し退いてくれないか」


 小鳥たちを蹴らないように注意しながら玄関を上がる。

 碓氷に付いて行くと入口で見かけた二本松が縁側の廊下から庭に見えた。


「……本当に、立派な松だな」

「松、ですか? ああ、あれは息子が生まれた時に植えたものですね。おそらく……八百年以上は枯れずに生きていますわ」

「樹齢八百年……。凄い」

「お、帰ったか母……上」


 後方から声を掛けられる。水埜辺の弟、水伊佐である。

 彼はきっと碓氷だけが帰宅したものと思ったのだろう。碓氷と共に振り返れば水伊佐の表情は複雑なものだった。


「ただいま戻りました水伊佐。水紀里は?」

「仕事だよ。だから、帰ってくるのは夜中だな。――それで?」


 威圧的な視線が裏業に向けられる。それもそうだろう。この男は今きっと『何故人間の娘が彼岸の世界にいるのか』と疑問に思っているのだ。自分だって、もしも同じ状況になったらそう思う。


「なんでいるんだ。あんた、人間だろう」

「それ、は……」


 どうしても、そのことに関しては口ごもってしまう。『人間』だから、この世界にはいてはならないことは、十分に理解していた。

 裏業が黙っていると碓氷が小さく息を吐いた。


「わたくしが招待いたしました。さん、どうぞこちらへ」

「えっ?」


 何故、名前を。碓氷には名乗ったことなどないはずだ。それなのに――。


「どうして、私の名を……?」

「ふふっ。貴女のことは、知っていますから」


 益々ますますって、謎だった。


 ❀


「どうぞ、こちらです」と案内された部屋に入室すると、そこには水埜辺と人がその布団の中に横たわっていた。

 別れ際のあの苦しそうな表情ではないことに安堵するも、と裏業が感じたのには理由がある。


「……その方が、あの奴良野殿……なのか?」


 水埜辺、とは言い難いほど、雰囲気が変わっていたのだ。姿・形ではなく、寝てはいるがそこから感じ取れる雰囲気が彼とは似て非なるもののように感じて、裏業はそう感じたことに少しだけ胸が痛んだ。


「――朔の日の呪い。我々は新月の日をそう言います」


 あの時、何もしてあげられなかったという自責の念に駆られていると、水埜辺にゆっくりと団扇うちわで風を送っていた碓氷が口を開いた。

 裏業の頭上に疑問符が浮かぶ。戸の近くで立っていた水伊佐が大きく溜め息を吐き、裏業の疑問について説明を始める。


「満月が妖怪の力を一気に引き出す妖力の日なら、朔日は月のない日。つまりは妖力の失せる日だ」

「妖力の失せる日……」

「兄上は、だからな」


 半分、人間……。その言葉は裏業の心に妙に突き刺さった。


「では、彼は今、人間であると?」

「……ええ。そうなります」

「……でも、ですが、人間の姿では、死んでしまうのでは……?」


 彼岸で人間が生きることなどできない。そう彼に聞いていたため、そのことがどうしても気掛かりだった。水埜辺はあれだけ裏業がこの世界にいることを怒っていたというのに、それを十分すぎるくらい承知しているはずなのにこの親子は人間の彼の身体をわざわざ彼岸に戻した。


「その点についてはお気になさらず。この屋敷にいれば、彼岸の力を受けることはありませんから」

「そ、そうなのか」

「ええ……。にしても、女性に心配をかけさせるとは奴良野の男として恥じ以外の何物でもない」


 碓氷はぺちぺちと眠っている水埜辺の顔を叩いた。水埜辺は軽く「うっ」と呻いてはいたが、起きる気配はなかった。


「……水埜辺の容態も大分安定してきたようですし、わたくしは奥に戻ります。水伊佐、あとのことは頼みました」


 碓氷は立ち上がり着物の羽織をひらりとかえすと部屋を退室した。水伊佐は例の如く「ちっ」と舌打ちを打った。

 数刻ほどして「兄様!」という心配と不安に満ちた、叫び声が屋敷中を木霊こだました。水紀里が帰宅したのであろう。ばたばたと足音が段々と近付いて、音が止んだと思った瞬間、部屋の戸が思い切り開かれた。

 裏業は思わず刀に手を掛けたが、彼女の姿を見た瞬間に手に入っていた力が抜けた。白塗りをした顔に紅い口紅が映える。美人だとは思っていたがこれではまるで吉原の遊女だ。しかし今の彼女の状態は、輝かしい世界の住人とは思えないをしていた。


「兄様っ‼」

「うるさい水紀里! ……なんだその身なりは、だらしのない」


 確かに、と裏業も頷く。まとめられていた御髪おぐしかんざしが歪み取れかけていた。着物も着崩れを起こしておりなんとも水伊佐の言う通り『だらしのない』姿だった。


「み、水伊佐…………、兄様は……?」

「……。そこで静かに寝ているよ」

「…………。そう、そのようですわね。……取り乱しました。すみません」

「早く着替えてこい」


 酷いぞ、と呆れた表情で水伊佐は水紀里に身なりを整えるよう促した。

 水紀里はちらりと水埜辺の側に座る裏業を確認すると、彼女は何事もなかったかのように一礼し部屋を去っていく。

 続いて、水伊佐も面倒くさそうにして人の姿に変わって寝ている水埜辺の側にあった、水の張った桶を片手に持ち退室した。

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