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第29話 『痣者』

 裏業が初めて人の首を斬ったのは、自身の兄の首だった。


 ❀


 今から十二年前の話である。


 裏業はその当時のことをあまり覚えていない。というのも、あまりいい記憶ではないからである。

 裏業は実の親に捨てられ、奴隷として旅商人に買われた。当時、彼女は五歳だった。

 名も無く、幼い彼女が唯一持っていたものは錆びた刀――これが朝凪である――のみ。到底、子供が扱えるような代物ではないが、何故かこの小太刀だけは何があっても手放そうとしなかった。


 ある日のことである。

 奴隷買いの旅商人と共に裏業は京の都へと訪れたことがあった。


 キラキラ、チカチカ。


 どこかで「はいらんかね」という言葉が彼女の耳に入る。――それは彼女の首筋にある桃の花の痣のことを指しているらしいのだが、彼女にとって『痣者』という単語はこの時縁も無かった。

 ――ただ、彼女の目に映るものはすべて輝いて見えた。その刺激は『痛い』ものだった。その痛みに耐えようと持っていた朝凪の鞘をぐっと強く握った。



「――ちょっとそこの旅商人さん。少しお話をいいかしら?」



 ふと、女性の声が裏業の頭上に飛び込んだ。ゆっくりと視線を上げて、整えられていない長い前髪の隙間から見えたのは優しそうな自信に満ち溢れた女性と、その横で汚いものを見るような目をしている男性が立っていた。

 これが裏業と、橋具とその妻、あさとの出会いだった。



「何だい。このに興味がおありで?」


 ぐいっと思ってもいないくらいの強い力で首根っこを掴まれ、裏業は思わず顔をしかめた。


「野良犬? この子はの子ですわ。何を言っているのかしら?」


 キッ、と浅が彼を睨み付ける。旅商人は彼女の眼光に怖気付おじけづく。いつも余裕ぶっている表情しか見てこなかったためか、裏業は不思議なものを見たような感覚になった。


「な、なんで赤の他人のあんたがそんなこと……! こいつはなんだよ!」


 その一言に無愛想な男性が声を上げた。


「物ではない。これ以上その子を侮辱するなら今すぐ――」

「橋具様、それはやりすぎですわ」

「しかし、お浅……」

「ごめんなさいね」


 浅は裏業にこの状況について申し訳なさそうに謝った。そんなこと微塵も考えたことなど無いのに。


「ではこういたしましょう。我々がこの子を買います。これで文句はないのでしょう?」

「……いくらで買うんだい?」

「これでどうだ」


 橋具が着物の裾から袋を旅商人の目の前へ投げ捨てた。旅商人は裏業の首元から手を放し、その袋を拾い上げる。とんでもないほどの金額が入っていたのだろう、旅商人はごくりと喉を鳴らした。


「それを拾ったらここからすぐに立ち去れ!」

「は、はいぃ‼」


 旅商人はすぐさま金銭を拾い集め、橋具の剣幕に負けその場を去って行った。

 裏業は、一体何が起こったのか、起こっていたのか皆目見当が付かず動けずにいた。そんな彼女に浅はゆっくりと近付き、そしてよしよしと頭を撫でる。


「……よくここまで頑張りました。偉いです」


 身構えていた反動で緊張が一気に解かれ、どっと体から力が抜けていく。浅の胸元に顔がうずまったが離れる気力すらない。ふにふにとした感触が妙に心地よかった。


 ――桃に似た、甘いにおい。


 それは、どこかで嗅いだことのあるにおい。

 誰だったか、どこだったかは覚えていない。

 ただそれは、裏業にとってとても懐かしいと感じるものだった。


「……あら」


 安心したのか、裏業はそのまま彼女に抱かれ深い眠りについたのだった。

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