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第32話 『世話係』

 彼女の興奮が落ち着いた頃、浅から乃花に浅乃助についての説明があった。


「あの子は私の息子で、名を桔梗宮ききょうのみや浅乃助あさのすけと言います。本来であればこの桔梗宮家を継ぐ嫡子ではあるのですが、後天性の病により両目を失明しました。現在は訳あってこの奥老院にひとり暮らしています」

「家を継ぐことができないということですか?」

「……そうなります。だからという訳ではありませんが……私たちが跡取りを取ることはありません。以前からそうしようと決めていますから」


 それは、この桔梗宮家が浅たちの世代でお家断絶するということだ。拾ってもらった恩を返したいと思った乃花だったが、乃花は女の身であるため家を継ぐことはできない。やるせない気持ちが乃花の心に圧を掛ける。


 もしも私が男児であったなら。

 少しでもこの人たちに恩が返せたのに、と。


 同じことを永遠考えてしまう自分に嫌悪する。血が滲むのではないかと思うくらいに、乃花は自身の拳を膝の上で強く握りしめた。そこに浅の手が、強く握りしめられた彼女の拳を優しく解く。浅の目には今乃花が考えていることが分かったのだろう。諦めと哀しみの色が宿っていた。


「良いのです。全ては運命。決まっていたことなのですからあなたが哀しむ必要などないのですよ?」

「……。でも」


 良いのだと言っても乃花は食い下がらない。仕方がない。ひとつ息を吐き、浅は乃花の目を見つめた。


「乃花、ひとつだけお願いがあります」

「! 私にできることなら何でも言ってください!」

「では、浅乃助の世話を頼めますか?」

「……え?」


 乃花は一瞬、何を言われたのか理解ができなかった。

 件の彼の世話を自分がする。だけれど、彼にはすでに女中が何人かあてがわれているはずだ。


「そ、それは構いません。ですが、浅乃助、様にはすでに何人かの女中があてがわれていると……」

「ええ。いますよ。でもそれは身の回りの世話だけ。それに、女中たちが四六時中浅乃助に付き添っている訳ではないのです。あの子はずっと寂しかったのでしょう。あなたのことを話す浅乃助はとても楽しそうにしていました。それを見て、確信しました。私はあなたに浅乃助の側にいてほしいのです」


 浅の目は真剣だった。嘘など言っていない。揺るぎない意志を乃花は感じ取っていた。


「……わ、分かりました。お浅様がそうおっしゃられるなら」


 乃花は浅の意志に折れ、浅乃助の世話係として奥老院に赴くこととなったのだった。


 ❀


 世話係とは。

 少なくとも、乃花が仰せつかった『世話係』の一般的解釈とは——彼に対しての場合——目の不自由なあるじの身の回りの手伝いや、手を引いて誘導など簡単なものではなかっただろうか。少なくとも、彼女の中の『世話係』とはそういう認識であったのだ。

 なのだが――。


「乃花」

「はい。いかがされましたか浅乃助様」

「あ、またその呼び方! 『様』付けで呼ぶのはやめてと言ったはずだよ?」


 このように、先ほどから我儘ばかり。これでは世話係というよりも話を聞くためだけにこの場にいるようなものだった。

 それに、自身の身分を理解していないのか、彼は乃花に対して対等でいなさいと言いつける。乃花は本来このような場所には足を運ぶことさえ許されない身分にいる。その立ち位置には不安さえ覚えた。


「……ですが浅乃助様。あなたはお浅様の御子息ごしそくにあたります。私はただの拾われた……そこら辺のものに過ぎません」

「……そんなこと、言わないでくれ乃花。父上も、母上も、この桔梗宮家にいる者は皆、乃花のことをそんな低く見ていないし思っていないよ。…………そうだっ!」


 浅乃助は急に声を張り、乃花の手をがっちりと握った。目は見えていないはずなのに、どうして正確に手を握れるのか乃花は不思議でたまらなかった。


「乃花、今日から僕のことは『兄上』と呼びなさい!」

「は、はあ⁉」


 いったい、何を言い出したんだこの男は。さっきの話はちゃんと聞いていたのか?

 自分は身分の低い身分であると伝えたはずだ。それを兄と呼べと言うのか。それは流石にまずいと思った乃花は否定しようとした。


「ですが、あ、浅乃助さ――」

!」


 しかしそれは浅乃助によって食い気味に拒まれた。これ以上、彼に何を言っても無駄だろうという答えに辿り着いた乃花は、諦めて「……、兄上……」と呟くように小さな声で浅乃助をそう呼んだ。浅乃助には届いていたようで満足そうに笑みを零していた。


「はい、よくできました。母上に拾われたのだから僕たちは兄妹だ。なんらおかしくなんかないよ。……生まれなんて、この家では関係ない。僕だって、この目を失った時、本当なら死んでいたはずなのだし」

「……兄上、は、この奥老院にひとりで寂しくはないのですか?」


 ぴくり、と彼女の手を握っていた浅乃助の手が震えた。聞いてはならない質問であっただろうか。乃花は少しだけ後悔した。


「そうだね。そうでないと言えば、少し嘘になる。けれど乃花もいるし……最近はそうではないかな」

「……そう、ですか」


 その日、その話以降彼らが話をすることはなかった。



 ある日は雨が降っていた。天気が良ければ庭に出て花を見ようと約束をしていたのに、少しだけ残念だと乃花は思った。


「雨……」

「残念だったね。この時期は梅雨だからしばらくは雨が続くかもしれないね」

「では、今日はいかがしましょう?」

「んー……あやとりをしようか!」


 浅乃助はあやとりが上手かった。手先が器用なのだろう。少し触れただけで次の一手を思いつき華麗な手捌きで糸を繋いでいく。彼曰く感覚論なのだそうだ。


「あら。今日はあやとりをしているのですね、浅乃助」


 浅がいつものように様子を見に来た。その存在を隠していたとはいえ彼は彼女のたった一人の息子。可愛くないはずがない。彼らの家族感を端から見ることが乃花にとっては安心できる光景だった。しかし、今日はどこか違和感を感じた。それは浅の恰好にあったのだろう。

 いつもは煌びやかな着物に身を包み、おしとやかな雰囲気を帯びている。しかし今日は男物の着物を身に纏い、たすきを肩から掛けている。髪も簪ではなく上に一つに束ねて左腰には太刀を一本差していた。その姿はまるで男性だった。


「あ、母上。今日はこちらに御用が?」


 奥老院に浅が来ることはそう珍しいことではない。けれどいつもは聞かないことを浅乃助が質問したので、乃花は浅乃助が何か違うものを感じたのだろうと察する。


「ええ。仕事です」


 ――仕事?


 仕事とは、橋具とともに行うのではなかっただろうか。けれどそれはこのような格好をする必要がない。


、こちらへ」


 女中しかいないはずの奥老院に男性の声がした。今日は何かがいつもと違うのだと、乃花は分からないなりに感じていた。


「……なるほど。でしたか」

「ええ。では、またのちほど」


 浅乃助が聞くと、浅は柔らかく応じた。浅は去り際、笑っていたけれどどこか哀しそうだと乃花は感じた。ちくりと乃花の心が小さく痛んだ。

 この時はまだ何も知らなかったのだ。浅が呼ばれていた呼び名の意味も、彼女の仕事の内容も。

 後に彼女が受け継ぐことになるとはこの時は何もかも予想もしていなかった。だから、疑問に思ったことを何の気なく浅乃助に質問したのである。


「……兄上」

「ん? どうしたの、乃花。次は君の番だよ?」

「どうして、この奥老院に来るお役人は皆、お浅様のことを『裏業』様と、呼ぶのですか? ちゃんと名前があるのに、知らない名前を……」


 その言葉に浅乃助は眉間にを寄せた。

 浅乃助はそれについて知っていた。何故ならば、本来であればそれは自分が受け継ぐはずのものだったからだ。しかし、不慮の事故によってそれはできなくなった。不甲斐ない自分に嫌気が差す。浅乃助は無意識のうちに奥歯を噛み締めた。


「…………僕の所為で……」

「え?」

「あは、乃花が気にすることではないよ。それよりも、ほら。続きをしよう」


 乃花は浅乃助に促され次のあやとりを取った。一本、決めた糸を引っ張ると、その選んだ一本は全ての糸を解かせてしまった。


「乃花の負け、だね」


 解けてしまった糸を見る。まるでこれからの日々が、何か小さな力によってこのあやとりの糸のように簡単に崩れてしまうのではないかと、頭に警鐘が鳴り響いていた。

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