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第33話 『桔梗院有政』

 その夜、浅乃助は夢に魘された。

 夢を見た原因は分かっている。見えることのない両目の古傷が痛んでいるのだ。

 しかし、夢に魘されている理由はそれだけではなかった。


 昼間に乃花が浅乃助に聞いた『裏業』という名前。


 これは、本来嫡男である浅乃助が継ぐはずだった家業の通り名である。しかしこれを家業とするには、少々覚悟が必要だと彼は考える。

 それは――裏業とは、斬首人の隠語を指すからである。

 代々『浅』の名を継ぐ者が担う生業で、その中でも彼の母である浅は歴代の裏業の中でも一・二を争うほどの剣技を有していた。

 浅乃助にとって母は偉大であり、同時に嫉妬する存在でもあった。


 ――願え。


 頭の中で、暗闇から化け物が甘い言葉を囁く。


「……黙れ……」

 ――願うために、のであろう。

「違う」

 ――生きるには、そうするしかなかったのだろう。

「……っ‼ 黙れ!」


 浅乃助は勢いよく夢から覚醒した。夢から覚めた感覚はこの目が潰れてからはあまり境が分からなくなっていたが、今宵は月が綺麗だったため、隙間から射し込む月明かりに「夢から覚めた」のだと自覚する。


「は、はぁ、は……。もう、嫌だ……。なんたって、こんな声……」


 夢の世界から脱したとて、もう一人の自分はいつも囁いている。

 叶えたい願いの為に『あの男』と契約を交わしたのだろう? と。

 耳を塞いだところで意味はなく、言葉は自然と入り込んでくる。


「もう、黙ってくれよ」


 もうすぐ、自分が浅乃助じぶんでなくなる感覚が彼を襲う。

 目は見えない。母の顔も、父の顔も、殆ど覚えていない。

 消えていく。記憶も、思い出も、心も。


 ――分かっていたさ。でも、できることなら。


 最期に、一度でいいから。乃花の笑顔が見て見たかったなと、浅乃助は悔やんだ。


 結局その日の夜はもう一人の自分との戦いに勝つため、一晩中寝ては起きてを繰り返したのだった。


 ❀


「……兄上? 大丈夫ですか、起きられましたか?」

「……っえ?」


 気が付いた時にはもう翌日の夜だった。寝付けなかったため、時間が長く経ったことに気付かなかった。

 彼は目が見えない代わりに他の器官が鋭くなっているため、自分でも音については敏感だと自負していた。けれど今日はいつもであれば気付くはずの音に、寝不足の為か全く気付かなかった。

 夕食を運びに入室し、彼の近くに座ったのだろう乃花が心配そうな空気を出している。それだけは、感じ取れた。


「……兄上、具合でも……?」

「あ、いや。おはよう乃花。美味しそうな匂いだね」

「もう夜ですが……。あの、兄上……実は、」

「こんばんは、浅乃助殿ー」


 よっ、と軽い声が部屋の外から聞こえた。


「桔梗院、有政殿……!」


 浅乃助は心底驚いた声を出した。初めてこんなに動揺した彼の姿を目にした乃花は、不思議そうに浅乃助と男を交互に見た。


「ご存じの方でしたか……」


 ご存じの方、と言ったはいいものの、浅乃助はあまりいい顔をしていなかった。年の頃はおおよそ三十と少しだろうか。そうだとすれば若作りだ。

 この時、乃花はこの男を敵視した。野良犬だった頃に身に付けた――勝手に身に付いていた――野生の勘が、目には見えない『何か』を桔梗院有政という男から察知したのである。


「昔から馴染みがある人だよ、乃花。僕のいとこにあたる有政殿だ」


 浅乃助が乃花に声を掛ける。きっと乃花が殺気立っていたのを感じ取ったのだろう。乃花はハッとして浅乃助を見た。


「いとこ?」


 乃花が首を傾げると、有政がクスクスと声を漏らし乃花を覗き込んだ。


「私の母が浅乃助殿の父上と御兄弟でね。君、見ない顔だね。新入りの女中さんかな?」


 ぞくっ、と蛇のような声が乃花の背筋を這った。


「僕の妹ですよ有政殿。乃花、と言います」

「そうでしたかそうでしたか! 君が噂の妹さんでしたか」


 浅乃助の横で警戒していた乃花に近寄り、有政は彼女の頭を撫でた。再び乃花の背筋が震える。得体のしれない寒気が走る。


 この男は――蛇だ。大きく、人の子など一飲みで喰らう大蛇だ。

 乃花は初めて人間が怖いと思った。無意識に浅乃助の後ろに隠れて裾をぎゅっと掴んだ。


「……乃花?」

「ん? どうしたんです?」

「……どうやら人見知りをしているようです。それよりも有政殿、本日は何用で?」


 ふわりと手が重なり冷えて震えていた体が温かくなる。きっと人見知りなんかではないことは分かっていたはずだ。分かっていて、浅乃助は乃花を安心させるために震えていた手を優しく握ったのだろう。無意識のうちに強張こわばっていた体の緊張が一気に解け心臓がばくばくとうるさく鳴り響く。

 ゆっくり、落ち着いて、と小さく横で浅乃助が宥める。その声を聴くと乃花は次第に落ち着いてきたのか泣きそうな顔をして浅乃助を見た。その顔を彼が認識することは難しいが、雰囲気を汲み取ったのか彼も少しだけ困った顔をした。


「今日はね、橋具叔父上への挨拶と君の診察に」

「診察……?」


 聞き慣れない単語が乃花の意識を掠める。


「彼は医者なんだ。僕の目も診てくれている」

「そう。だから、少し出て行ってもらえるかな、乃花殿?」


 ――にたり。蛇が浅乃助を飲み込んでそのまま殺してしまいそうな気がして、乃花は本能的に有政を睨んだ。

 何故だかは分からないが、浅乃助は有政のことを信用している。これでは、あの大蛇から兄を守ることができない。突き放そうにも彼が止めるのだから突き放せない。

 仕方なく、乃花は一礼し部屋を後にした。



 何もできなかった。生まれて初めて悔しいと思った乃花は気付いた時には奥老院の廊下を走っていた。

 恐くて怖くて堪らなかった。あの空間が苦痛で堪らなかった。

 本当に浅乃助をあのまま一人にしてきて良かったのだろうか? と乃花の頭の中はぐちゃぐちゃだった。


「――わぷっ」

「あら、乃花」


 無我夢中で走っていたため、前に人がいることに気が付かなかった。誰かにぶつかってやっと意識が散乱していたことに気が付いた。

 ぶつかった人物は浅だった。浅はどうしたの、と微笑んでいる。


「あ、あ、お浅様、あの……」


 何から伝えればいいのだろうか。あの大蛇は浅乃助のかかりつけ医で、彼もそれを承知している。敵ではないはずなのに、警戒を解けないのは何故なのだろうか。


「こんなところでどうしたの。浅乃助は? 起きましたか?」

「兄上は今、桔梗院有政という男と一緒に……」

「有政――⁉」


 その名前を聞いた瞬間、浅の表情が一変した。いつも見る優しい顔ではない。違う人間なのではないかと思わせるほど、彼女は怒りに震えた目をしていた。

 いつもとは違う浅の姿に乃花は少し動揺する。そしてこの時、有政という人物が桔梗宮家を脅かす存在てきなのだと確信した。


「まさかとは思っていましたが、こんなに早く来るなんて……」


 何かを少し考えた後、浅は乃花の手を取った。


「いいですか乃花。これからあなたには剣術を教えます」

「え?」


 今まで朝凪を持たせることもあまりいい顔をしなかった浅が、剣を教えると言った。

 刀を持たせることを禁じてきた浅自身からまさかそんな言葉を聞くとは思わなかった乃花は、腰に差している朝凪のつかを無意識に握った。

 この刀が飾りではなくなるのだ。


「これは、これから浅乃助を守っていくために必要な力となるでしょう。剣術の修行には危険が伴います。……それでもついてきてくれますか?」


 浅の眉間に自然としわが寄っていく。

 答えは決まっていた。桔梗宮家に拾われた時から、どうすればこの一生の恩をこの人たちに返すことができるのかと、ずっと考えてきた。その答えが今、目の前に転がっている。またとない機会だと思った。この朝凪ちからで大切な人を守ることができるのなら、危険など安い。


「はい。私はお浅様も、兄上も、橋具様も守りたい!」


 これが彼女が『裏業』になるまでの道のりだと、知らずに。

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