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第35話 『暴走』

 彼のことが心配になり乃花は浅と別れた後急いで部屋に戻ったが、彼女の目に映ったのは荒れ果てたの惨状だった。ものの数分離れただけだった。畳がひとつ残らず外れ、戸が全て外れ、書物だったものが紙屑になりまるで雪のように散乱していた。


「これは一体……⁉ 兄上は? 兄上! ご無事です……か……」


 頃合いが悪かった。乃花は目の前の光景に思わず息を殺した。

 完全に潰れていると思われた彼の両目は大きく見開かれており、月明かりに照らされているためか赤く光っていた。

 唸り声が聞こえ、乃花はその声の聞こえた方向に目を向ける。彼女の前に立っていたのは――浅乃助の姿をした、人ではない『何か』だった。



「…………。?」



 だが、乃花はそのを「兄」と呼ぶ。なんの躊躇いもなく、目の前の彼を、兄と。

 ブルッ……と体を震わせた浅乃助だと思われるなにかが、乃花を認識し警戒するように彼女の様子を窺っていた。


「兄上、私のことが分かりますか? 乃花ですよ?」

「ヴー……ヴゥ……」

「! そうです! 分かりますか、兄上?」


 ゆっくりと近付く。大丈夫。目の前にいるのは浅乃助だ。そう信じながら乃花は手を浅乃助の頬に向かって触れようとした。その瞬間、すんっと彼の鼻が鳴る。


「……の、ばな…………、逃げっ」


 浅乃助は乃花を認識したかと思えば再び「あぁっ!」と獣のように叫び頭を抱え込んだ。痛むのか部屋の中を走り回り、怪我など顧みず壁に当たっていき庭に飛び出した。

 月明かりの下に現れたのは――一匹の狐だった。正確には、浅乃助の姿をした体に黒いもやが纏われており、それが獣の耳を形成していた。

 個体として認識できるのは彼一匹だったが、尾から何本か分かれて出ている黒い靄から小さい狐のような顔が見えた。神経を研ぎ澄ませ観察していると、再び浅乃助が苦しみだした。


「ど、どうすれば……!」


 目の前で苦しんでいる彼を救うにはどうすればいいのだろうか。

 ふと、不意にある考えが乃花の思考を埋め尽くした。


「――兄上っ!」


 乃花は浅乃助に思い切り抱きついた。じゅっ、と彼の周りから出ている黒い靄が乃花を襲う。

 その靄は、今思えば浅乃助の心を写し取ったものだったのかもしれない。怒り、憎しみ、そして哀しみ。そういった感情が炎のような靄となって現れていたのではないかと。


「ああ……! がぁあ……!」

「大丈夫、大丈夫。兄上はちゃんと戻ってこれる! 大丈夫!」


 その時、ぶわりと桃の花の香りが乃花から放たれた。瞬間、乃花に抱きつかれていた浅乃助が脱力した。乃花は焦って「浅乃助様!」と声を上げたがそれは杞憂に終わった。浅乃助は気こそ失っていたものの、狐の姿ではなく元の彼自身の姿に戻っていた。もう大丈夫だと、乃花は確信した。


 一瞬、嫌な記憶が乃花の中に流れ込んだ。あれは、まだあの旅商人に買われる前の記憶だ。

 赤い色が水溜まりを作り、目の前で誰かが散っていく。それはきっと記憶であったかもしれないし、ただの夢だったのかもしれない。

 頭を思い切り振りかぶり、それは夢であったと思い込み忘れようとしたが、心のどこかでは本当に起きた出来事ではなかっただろうかと、自分に問い掛ける。答えは、すぐには出てこなかった。

 とりあえず今は浅乃助が無事であればそれでいい。明日、浅と橋具に今夜起きたことの全てを説明しよう。

 ――あの男は危険過ぎる。乃花は気を失った浅乃助をもう一度抱き締めた。


 ❀


「乃花!」


 翌日、朝方に橋具と浅が奥老院へと足を運んだ。橋具曰く「轟音が酷くしたと女中たちが言っていた」とのこと。どうやら何が原因で轟音が奥老院を支配していたかまでは知られていないようで乃花は少し安堵した。


「大丈夫ですか? 随分と髪が乱れていますが……」

「あ、はい。私は……」


 乃花はそう言いつつ無意識に左腕を軽くさすった。

 浅乃助が気を失った後、やっとのことで彼を布団へ寝かせた。ぐっと引きずる形ではあったが力を入れた時に左腕の上部が少し火傷していることに気が付いた。浅乃助の看病を済ませ、ついでに応急処置を施す。ずくりとさすった場所が熱く反応し思わず顔を顰めたが、浅たちには怪我をしたことはばれていないようでほっとする。

 彼らはそれよりもこの部屋の惨状が何によって引き起こされたのかを知っているようだった。


「そうでしたか。……橋具様。やはり有政をこの奥老院に入れるのは止めませんか?」

「……だが、それはを破棄することと同意……」


 はっ、と橋具は言い掛けて一瞬乃花を見た。


「この話は後でしよう。乃花」

「はい」

「昨日今日と浅乃助の看病で疲れただろう。もう自室に戻りなさい」


 有無を言わせない口調で橋具が乃花に『命令』する。

 彼女にとって橋具の言うことは絶対である。

 乃花はもう少しだけ浅乃助の看病をしていたかったが、橋具に言われてしまえば仕方がない。


「わ、分かりました。……では、失礼いたします父上、母上」


 乃花は、これ以上この場にいてはいけないのだと理解した。これから先ほど橋具が言い掛けた『契約の破棄』について浅と話し合うのだろう。

 家族だと思っていたが、核心部分に触れるにはまだ絆が足りないと思い知らされた。それがたとえ彼らの優しさだったとしても、彼女は気を落とさざるを得なかった。



 浅は眠っている息子の頭を撫でた。熱を帯びた額に前髪がくっついていたのでそれを掻き分ける。申し訳なさそうに、優しく分ける。


「……契約は契約だ。あの男と契約をしなければ、あの時浅乃助は死んでいた。お浅はそれでも良かったのか? 嫌だったから、生かしたのだろう」

「……っ、そうです。これは私の詰まらない欲です。でも、こうなるとは思わなくて……!」


 橋具は静かに泣き出した浅をただ諭すように肩をさすった。


「これは私の欲でもある。詰まらない罪を背負わせてしまったな……」


 これは、二人の罪。

 昇る太陽が二人の背中を温かく包み込んでいた。

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