目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第38話 『最期の願い』

 管狐と化した浅乃助がじりじりと有政の間合いに攻めていく。今の彼に理性があるかは分からない。ただ何故か、まるで彼は乃花を守るような体勢で彼女の前に立っていた。

 乃花は段々と間合いを詰めていく兄の背を目の前に、守られているような気がした。心配は安心へと変わり、目の前の敵を見ることに集中する。


 先日から習い始めた裏業としての刀の使い方。乃花はまだ刀を鞘から抜くことと、素振りしかやったことがない。実践など初めてだ。しかし、それを理由に今、目の前の戦いから身を引くわけにはいかない。


「妹殿は……どうやら、刀を持つことに慣れていないようだ、ね!」

「――きゃっ!」


 巻物だけだと思っていた懐から隠し持っていた短刀を右手に持ち、有政はそれを勢いよく振り上げ一気に乃花の左腕に下ろした。

 乃花は朝凪で有政の攻撃を防ぐも、力の差か、受けた朝凪もろとも後方へ飛ばされてしまう。体勢を立て直そうとした瞬間、冷たい視線が、地面に倒れ込んだ乃花の動きを止めた。



「お前、面白くないから。私のために死んでくれないかな?」



 有政は短刀をなんの躊躇いもなく乃花に振り下ろした。乃花は咄嗟に、手を頭の上に交差し攻撃を防ごうとした。


「――! 兄上!」


 しかし、その攻撃は未遂に終わった。浅乃助が、振り下ろされた短刀の盾となり、乃花を守ったのである。抱くようにして守ったため、刃が背中を掠めそこから多量の血が流れた。彼は苦しそうに表情を歪め唸っていた。


 ――乃花――。


 不意に、乃花の耳元で浅乃助の声が聞こえた。紛れもない、浅乃助の声だ。乃花は有政に悟られないよう、彼の言葉を聞く耳を立てる。


 ――大丈夫。大丈夫。


 熱いはずの管狐の黒炎は、確かに浅乃助の体に纏われているはずなのに、熱さなど感じさせないどころか温かく感じた。


「グゥウ……!」

「意識なんて無いだろうに、どうして。やっぱり君は面白いよ浅乃助! ……あれ」

「……取ッタゾ、有政ァ……!」

「うわー、最悪。……それ、返せよ化け物」


 浅乃助の手には血に濡れた三十六番の絵巻『管狐』が握られていた。「いつの間に」と自然に声が零れてしまう。ぽすん、と何かが彼女の頭の上に乗った。

 温かい、浅乃助の手だ。


「……乃花……。大丈夫、かい……?」

「兄上⁉ 意識が……!」


 完全に、浅乃助の意識が引き戻された。乃花が何かを話そうとした時、浅乃助が彼女の口元にそっと指を添える。そして彼女に微笑みかけ、静かに『管狐』の絵巻を渡した。


「……兄上?」

「これを、破れ」

「し、しかし! これを破ってしまえば、兄上が」

「そうしてほしいと、前にお願いしたはずだよ?」

「で、でも! これを破けば、死んでしまったら、」

「――頼ム、人ノ子」

「え……」


 浅乃助の意識が薄れ、管狐の意識が浮上する。一瞬乃花は彼を警戒したが、あの夜のような禍々しい様子はなく、むしろ優しささえ感じる。

『頼ム』と管狐は言った。


「……もう、宜しいのですね」


 この世に生きるのは、もう疲れたという意味なのだろうと乃花は感じた。それほど管狐は『桔梗院有政』という男に利用されてきたのだろう。その答えに、乃花の心に沸々と怒りが込み上げる。


 乃花は浅乃助から絵巻を受け取り、破ろうと力を入れた瞬間――ドスッ、と嫌な音が乃花の耳を劈いた。ごぽりと浅乃助の口から赤い水が流れ出る。


「あ、あぁ……っ」


 彼の肺を突き刺していたものは切っ先の鋭い刃ではなく、有政の右手だった。その右手には蛟が巻かれており、水が纏われていた。纏われているためか黒炎は右手を避けている。「グゥッ」と血を吐き出しながらも管狐は必死の抵抗で有政を逃がすまいと掴み続けている。


「うっざ! 放せよ化け狐!」

「兄上のことを悪く言うな、化け物!」


 あの旅商人と同じだ。人を人とも思わない。


「お、本性現したな野良犬のらいぬ! 本当のことなんだから言って何が悪いんだい?」

「――っ貴様‼」

「もうお前は死ぬんだよ。必死になってまで、何故生き永らえようとする。無駄なことなのに、ね……え?」


 がはっ! 有政が少し後方へ飛び、空咳を吐く。そこに血は混じっていなかった。彼の、有政への必死の抵抗による蹴りが彼の胸中に入ったのだ。衝撃による反動的なものだったのだろう。

 浅乃助は蛟からの拘束から逃れると、再び乃花に素早く耳打ちをした。乃花はその耳打ちの内容に正直絶句したが、それでも今は「やらなければ」という思考が彼女の脳内を埋め尽くした。


 乃花は浅乃助に耳打ちされた通りに、手に持っていた朝凪を浅乃助の体ごと思い切り有政の体に突き刺した。反射的に避けた有政だったが、一瞬では避け切れず左脇腹に朝凪が刺さった。朝凪を勢いよく抜くと、有政の傷から血がぼたぼたと地面に流れた。

 有政の力が薄れたのか蛟が絵巻の中に消えていった。同時に、浅乃助の体から重力が無くなり地面に体を打ち付けた。彼の体は脱力し切っており、すぐさま乃花は彼に寄り添い朝凪を有政に向ける。有政はこちらを空ろな目をして睨みつけていた。


「……あーあ……。けほっ。もういいや。その三十六番も浅乃助もいらない。好きにすれば?」

「……!」

「折角苦労して捕まえたのになぁ……。残念だよ、殿。もう我々は会うことはないでしょう。ご安心くださいな」

「ふざけるな。今日のことは全てお浅様と橋具様に報告させて頂く‼」

「どうぞご自由に。ではさようなら、管狐と浅乃助殿」


 手をひらひらと揺らし、さも何事もなかったかのように有政は奥老院を後にした。

 あの男の自由さに、何も言う気も失せた。


「…………乃花……。よく、できました、ね」

「兄上!」


 血に濡れた手が乃花の頬を掠める。浅乃助がにっこりと笑いながら乃花を撫でた。

 血を流し過ぎた所為か、浅乃助の顔から血の気が引いている。感覚も麻痺しているのか、痛みを訴えるような表情をしなくなった。

 息をするのが、やっとのようだった。

 乃花は浅乃助にいらぬ心配をさせぬよう、必死に笑顔を作る。


「いえ……、いえ! 私は、兄上の言うとおりにすることができなかった! 申し訳ありませんでした……!」


 しかし、悔しさが上回り表情が曇る。ついには彼女の目から涙が零れ落ちた。それでも浅乃助は「これで、良かったんだよ」と笑って見せた。

 何もよくなんてないんだ。だって死ぬんだぞ。思考がぐちゃぐちゃに乱される度に涙が止まらない。

 浅乃助は息も絶え絶えながらも笑顔をめることはなかった。彼は乃花の腕の中で支えられながらも手を優しく握り、そして言う。


「……さあ乃花。最期のお願いだ」

「え……?」

「僕は桔梗院有政を殺そうとし、そしてこの屋敷の者たちを、乃花を……無差別にも死なせるところだった。自分の意識が無かったとは言え、罪人としては十分理由になる……」


 乃花は、彼の言っていることの意味が分からなかった。いや、分かっていたが脳がその言葉を咀嚼することを拒否した。


「なに、を」

「乃花は母上を……『裏業』を継ぐ者。罪人を裁くのが、仕事。だから」

「だから、首を斬れと?」


 乃花は抑えきれず怒気の籠った声を出した。


「話が早くて助かるよ」

「……どうしても?」

「もう戻ることはできないよ。いつ、また暴走するかも分からない……。さあ、この意識がいつまで保つか分からない」


 もうこの人に何を言っても、説得を試みようとも無駄だと乃花は理解した。

 乃花は朝凪を握り直し、浅乃助の体を座らせた。項垂れた姿の浅乃助の背後に立つと、首元に一度刃を置き目を瞑った。


 守りたくて手に入れた力を、守るべき人に行使することになるなんて。こんな不条理なことが現実に起こり得るだなんて乃花は認めたくなかった。


 浅乃助は乃花に渡した管狐の絵巻をもう一度持つとそれを広げ、朝凪をその絵巻にぐっと刺し込んだ。

 絵巻から黒い墨がじわじわと滲み始め、浅乃助が苦しみだす。きっと、彼の中にいる管狐が痛みを訴えているのだろう。


「ぐっ……、はっ……。今日まで、ありがとう乃花。僕は、とても幸せだった。すまないね……。では、一思いにやってくれ」


 ぐっと大声で泣きたくなるのを必死に堪え、乃花は朝凪を頭上へ振りかざした。そして、浅から継承した裏業の技を彼の首に落とした。

 音もなく、浅乃助の首が地面に落ちた。



 乃花は彼の首を抱き、大声を出して泣き続けた。

 その日、雨は降っていなかったが、彼女の服が濡れたのは言うまでもない。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?