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第39話 頼守への日記

 そこまで話し、彼女は目をゆっくりと開ける。

 水紀里はただ静かに裏業のことを見つめていた。


「……お互い、兄には苦労しますわね」

「まぁ、そうだな」

「……入れたお茶が冷めてしまいましたね。入れ直してきます」


 水紀里は盆の上に湯呑と急須を置き、持つとお茶を入れ直しに台所へと戻った。



 月が無い日にも関わらず、部屋の中には光が差し込んでいる。水埜辺は気持ちよさそうに眠っているようで裏業は安心した。


 今度こそ、今度こそは守ってみせる。

 誰に何を言われようとも。自分の気持ちを全うすると、彼女は無い月に誓った。


 ❀


 ――まさか、裏業さんが桔梗院と接触していただなんて……!


 裏業の話を聞いた水紀里は気が気でなかった。

 奴良野一族が八百年近く探し求めていた人物の手掛かりが漸く掴めそうなのである。


 ――早く、母上にお伝えしなければ。


 水紀里はお茶を入れ直しに行くついでに、急ぎ碓氷の元へと向かうのだった。


 ❀


 水紀里がお茶を入れ直しに部屋を出て行った時、ふと奥の間に沢山の書物が置かれているのが裏業の目に留まった。裏業は吸い込まれるようにして奥の間に足を踏み入れ、その一冊の書物を手に取った。


 それは『頼守よりちかへ』と書かれた、日記のようだった。

 俺、というのは恐らく水埜辺のことだろう。では頼守というのは……? 妙に気になり辺りを見回すと、日記は手に持っているものだけではなく、周りに置かれているもの全てが同じ題名のものだった。


「あの男は、日記をつけていたのか……? 案外、まめな性格だったのだな」


 水埜辺は自由奔放で、こんな日記をいちいち書き記すような男ではないと裏業は思っていた。だからだろうか。裏業は余計に日記の中身が気になった。手に持っている日記を申し訳ないとは思いつつ、人目を忍び日記を開いた。


 出だしは八百年前のこと。彼がまだ完全な妖怪だった頃の話だった。


 ❀


『延暦十三年のいつだったかは覚えていない。今日は下界の人間どもが、どこか騒がしくしていた。京の都でどうやら桓武という男が遷都をしてきたらしい。そんなことに興味はないが、人の移りゆく姿を見るのは好きだった。

 人間は本当に面白い!

 我々、妖怪という存在を恐怖し、畏怖することにより生み出したにも関わらず、その存在を否定する。俺は、そんな感情のころころと変わる人間が好きだ。

 ずっと、見てきた。ずっと。

 あれから、何年が経っただろうか。いつの間にか桓武は死んでいた。

 生前はよく彼の屋敷に人間の振りをして忍び入っては蹴鞠をしたものだ。


「人の一生とは、本当に短いなあ……」


 奴良野の山から都を眺めて、とてもその光景が儚いものだと思った。


 四百年後、平治元年。

 日本国は乱世の時代に移り変わった。血が流れることは悲しいことだ。この時ばかりは血の臭いが嫌で人里から離れていた。当時、奴良野山の麓には源氏が一部暮らしていた。

 源頼朝の分家に当たる、源頼宇治よりうじ。そしてその妻、花緒はなお。二人は仲睦まじい夫婦であった。

 彼らが奴良野山に移住してきてから十年ほど経った夏の頃、第一子である頼舟よりふねが生まれる。これが、頼守の兄に当たる人物だ。』


 ❀


 これはきっと、水埜辺の字だ。

 細かく書かれた日記から、この男は本当に人のことが好きなんだということが感じられた。優しさに溢れた、綺麗な字だった。


「……頼守というのは、一体誰なのだろう……」


 これから先を読み進めてはいけない気がした。彼の心の中を、断りもなく覗いてしまうと思ったからだ。だが、裏業の手は彼女の意志とは関係なく、次の紙を捲ろうとしていた。

 けれどそれはある人物の声によって遮られる。



「――――何を読んでいるのかと思えば……随分と懐かしいものを見つけましたね」



 裏業は、その声を認知すると後ろを振り向いた。そこにいるが、今会いたいと望んだ水埜辺ではないことは理解していた。そして、彼の名前がなんなのかも、今の裏業には分かっていた。


「……源、頼守殿……」


 裏業に名を呼ばれた瞬間、本人――頼守はきょとんとした。


「ああ、なんだ。私の名前をご存知だったのですね。あ、そうか。きっとその日記に私のことも書かれていたんでしょうか。なら納得です」


 いや、貴方宛ての日記のようですが? ……と、裏業は喉まで出かかった言葉をぐっと我慢する。そっと、無意識に日記を懐に仕舞った。


「まあ、どうでもいいですね、そんなことは。初めまして、我が一族のさん」


 そのにこやかに笑った顔が、どこか水埜辺に似ていたことは心の中に仕舞っておこうと思った。彼は彼なのだ。水埜辺ではない。よく見ると、彼の左額から頬に掛けて文字のような痣があった。どこか浅乃助あにを彷彿とさせる印象に、少しだけ目を逸らしたくなる。


「……もう、お体の方は大丈夫なのですか?」

「……ええ。もうすっかり。あの時、貴女が私たちをあの屋敷に匿ってくれたおかげです。本当にありがとうございました」

「い、いえ……」


 ふと、裏業は先ほどの言葉の中に引っ掛かりを感じた。


「あの、私が貴方の一族の末裔というのは、どういう……?」


 頼守は頭の上に疑問符を一瞬浮かべたあと、またにこりと笑った。裏業は水埜辺とはまた違った意味で彼のことを少しだけやりにくい相手だなと思った。


「貴女の持っているその小太刀は私から、私の兄・頼舟へと献上したものです。姿かたち、全てあの頃のままの状態で現存していたとは夢にも思いませんでした。これは奇跡に近い。よく今まで守ってくださいました。きっと、一族の者がこれを家宝として守ってくれていたのでしょうね……。あの、触れても、宜しいですか?」

「え、ええ。……しかし、これがそれほど長い歴史を生きるものだとは思いませんでした……」


 頼守は裏業から朝凪を受け取ると、鞘から抜刀し、その刀身を空に向けた。


「……お帰りなさい。よく、ここまで無事でしたね、朝凪」


 頼守が朝凪の名を呼ぶと、それに呼応したように錆びているはずの朝凪の刀身が輝いた気がした。

 百年以上、人の手に渡り大事にされたものには付喪神が宿ると云われているが、もしかするとこの朝凪にも付喪神が宿っているのかもしれない、と裏業は思った。

 しかし、その輝きを見つめていた頼守の表情が一瞬曇る。裏業はそれを見逃さなかった。どうしたのかと気になり、思わず声を掛けた。


「……いかがされましたか?」

「…………いえ。何でもありません。……今日はもう遅いですから、このままこちらに宿泊してください。明朝、貴女の此岸せかいへお送りいたしましょう。それまで、この朝凪をお借りしても宜しいでしょうか?」

「それは、別に構いませんが……」

「ありがとうございます。……水紀里さん」


 頼守が部屋の襖に声を掛ける。すると、いつの間に戻っていたのか水紀里が静かに戸を開けた。


「……はい、。水紀里が、ここに」

「お呼び立てしてすみません。裏業さんに部屋の案内をお願いできますか?」

「畏まりました。どうぞ、裏業さん。こちらへ」


 水紀里が、兄の水埜辺以外の言うことを簡単に聞く姿を見て、少しだけ違和感を感じた裏業だったが、考えることを止め、彼女の後を付いて行った。

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