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第43話 覚悟

 水紀里は彼岸世界の吉原遊郭で働いている。その見世ではそれなりの人気があり、客足も途絶えないと聞く。「聞く」というのも、あまりここでの姿はいくら敬愛する兄でも見せるのが恥ずかしいからと、絶対に来るなと彼に釘を刺し、遊郭での自分を見せることを妙に嫌ったためである。

 故に水埜辺は、彼女がどれだけ有名であるかを知らなかった。


「……水埜辺様? どうなさいましたの、黄昏たそがれて」


 彼岸の吉原遊郭『花女郎はなじょうろう』の太夫、犬神の篠目ささめが水埜辺のお猪口に酒をぐ。


「それに、こんな昼間からお酒を嗜まれるなんて……。珍しいこともありますのね。そういうお人とは聞いておりませんでしたのに」

「んー? そういう気分の日もあるさ。それ誰情報? 水紀里?」

「まあ水埜辺様ったら!」

「はぐらかすんじゃないよー。俺と君、今日あったばかりだろー」

「まあ、まあ」


 篠目はくすくすと上品に笑う。その感覚に呑まれそうだと水埜辺は苦笑いした。

 水埜辺の横では水伊佐が、何の関与もしないぞと外を眺め酒を一人で飲んでいた。


「そうだ、篠目太夫。妹を呼んできてほしいんだが。今の時間は忙しいだろうか」

「呼べば、ほどなく来ると思いますわ。少々お待ちくださいませ。すぐに呼んで参ります」


 篠目太夫は微笑み、客間を退室した。横目に水伊佐を見ると何やら難しい顔をしていた。


「伊佐、どうしてそんなに難しい顔をしているんだい?」


 水伊佐に話しかけると、彼は何故か殺気立っておりギロリと水埜辺を睨んだ。


 ――怒ってるなあ。


 そう思う水埜辺だったが、彼の怒っている理由は何となく予想できていた。


「……どうしたんだよぉ、伊佐ぁ?」


 けれど、分かっていたからこそ水埜辺はあえてその言葉を弟である彼に投げ掛ける。水伊佐は相変わらずムスッとしていたが、同時に大きく溜め息を吐いた。


「……呆れた。人間と長く接触してたかと思えば、次は遊郭で女遊びか? 彼岸の主である鴉天狗の頭領が聞いて呆れる」

「ははは、手厳しいなあ。心配せんでも大丈夫だ。俺は山を下りる。もう頭領は辞めるんだ」

「――は?」


 その発言に水伊佐は耳を疑い絶句した。


「何言ってんだ……? そんなこと、母上が許すはずないだろ」

「それが許されたんだな~」


 水埜辺はくつくつと笑いながらお猪口を一口煽る。水伊佐はまるで信じられないものでも見ているかのような目で水埜辺を凝視した。


「嘘だ……。あの母上が、許したと……?」

「そー。だから、次はお前が奴良野の長になるんだ」

「そんな――っ⁉」


 水伊佐が勢いよくその場から立ち上がったと同時に、室外から待っていた人物の声が通った。



「――兄様、水紀里でございます。入ってもよろしいでしょうか?」



 どうぞ、と水埜辺が優しい声で入室を促せば、ゆっくりと戸が開かれ、水紀里が入室する。

 その姿は篠目太夫のように美しく、そしてみやびなものであった。元々端正な顔立ちであったから、髪飾りなどの装飾品も相まって一層輝いているようだった。白い肌に赤みが差し、作法も山の者とは思えない。水埜辺は満足げに美しい妹を眺めた。


「うん、今日は一段と美しいね、水紀里。……ああ、今は氷松こまつ太夫と呼んだ方がいいのかな」

「いいえ。兄様のお好きな方でお呼びください。どちらで呼ばれても紀里は嬉しいです」

「そうか~」

「なんだそれ。外であんまヘラヘラするなよ、気色の悪い……」

「黙りなさい水伊佐。……あなた、兄様の付き人としての自覚が無いのではなくて?」

「お前こそ。隠れてこんなところで銭稼ぎして何になる。化粧臭い女を好く客なんて低俗だけだろう」

「実の姉に向かってなんと口の悪い。その口、凍らせて差し上げますわよ」


 水紀里は水伊佐に向かって静かな殺気を放つ。凍てつく空気が部屋中を覆った。水伊佐も対抗して殺気を放つ。彼の殺気には水紀里とは対照的な熱気が籠っていた。

 氷と熱、水と油。

 双子とは因果なものだとつくづく思う。


「紀里、伊佐。殺気立つものではないよ、お止め」


 水埜辺は優しい口調で二人を諭した。ぴたりと彼らから漏れていた殺気が止む。


「ですが兄様……!」

「『ですが』じゃなくて! ……紀里、ここはあくまでお前の仕事の場。お前の部屋ではないよ。それから伊佐。血を分けた姉弟きょうだいに滅多なことを言うものじゃない。兄弟は大事にしなさい」


 今までにない水埜辺の怒気に、水紀里と水伊佐は一瞬怯んだ。


「も、申し訳、ありません……」

「…………。悪い。言い過ぎた、水紀里」

「いえ。私も自分を見失いました。ごめんなさい」


 珍しく水伊佐まで、しゅん、と項垂れていた。水埜辺はやれやれといった表情で二人を宥めた。


「……これからお前たちは奴良野山を統治する身になる。だから、仲違いをしてはいけないよ。上がしっかりしていなければ、下はついてこない。……俺はこれからの未来を頼守とともに生きると誓った。あの山では、何百年も前から邪魔者だった俺が、頭領を辞めるんだ。となれば、次に白羽の矢が立つのは必然的にお前たちになるだろう」

「辞める……?」

「どういうことだ」


 水埜辺はゆっくりと二人の側に寄り、自身の腕の中に二人を抱き納めた。突然のことで水紀里も水伊佐も声が出なかった。


「まあ、あれだ。俺もそろそろ引退する時期だと思ったわけよ。だから『頃合い』ってやつだな。難しいことはお前たちに任せて、俺はとっとと退散しようと思ったわけさ」

「そんなの許されると思うのか! 兄上は奴良野の頭領というものを何も理解していない」

「……んー、困ったなぁ。……やっぱり二人には言っておくべきか……」


 水埜辺は二人に隠していたことを耳打ちをした。

 その内容に、水紀里の顔は青ざめ、水伊佐は怒りすら湧かなかった。


「約束の日まで、俺は此岸にいるから、それまでは山を守ってくれ。兄上との約束……守れるな?」


 そう言って水埜辺はもう一度二人を寄せて力強く抱き締めた。


「……自分勝手な兄ですまないな」


 水埜辺は笑った。いつもするみたいに、優しい顔で。

 二人が脱力したのを確認すると頭をぽんぽんと叩き『花女郎』を出て行った。残された二人は、ただただその場に尽くすしかなかった。


 ❀


「……どうして……?」


 うぅ、水伊佐の隣で小さく音がした。水紀里が声を殺しながら泣き始めたのである。水伊佐は慰めることなどしなかった。水紀里は、泣き続けている。


「……泣くな水紀里。みっともないぞ」

「……どうして、あんなことを……。……あの女と出会ってから兄様は変わられた。あの女が兄様のことをたぶらかしたに違いないわ……。だから――!」

「見苦しいぞ‼」


 室内に水伊佐の怒号が響き渡った。あまりの声の大きさに水紀里はびくりと無意識に肩に力を入れた。


「み、水伊佐……?」

「兄上はそうすると決めたら揺らぐことはない。それはお前もよく知っているだろう。もう腹を括れ」

「……私たちがどうしてもと泣いて訴えれば、どうにかお考えを変えてくれはしないでしょうか」

「さあな。……だが、いつだって兄上は奴良野の為に動いている。きっと今回も、奴良野の為に……」

「そうね。そうだったわ。……きっと兄様の意志はもう変わらない。ならば、私たちが兄様の為に今できることは……」

「ああ。とりあえず家に帰ろう。母上にも……話を聞かなければな。


 水伊佐は水紀里の目の前に右手を差し出した。水紀里は一瞬ぽかんとしたが、次の瞬間には柔らかく笑っていた。


「あなたが私のことをそう呼ぶなんて何百年ぶりかしら。明日は奴良野の山が崩れるかもしれないわね」

「……馬鹿言え」


 差し伸べられた手に触れ、水紀里はゆっくりと立ち上がる。

 ふと、水伊佐の顔を見ると彼の耳が先の方まで赤くなっているのが見えた。それを見て、また笑う水紀里であった。

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