聡也の携帯電話の電話帳に、コハクの名前が追加された。
前に勤めていた工場の連絡先は消して、琉斗の電話番号を追加したから、就労支援施設と琉斗、そしてコハクが加わってこれで登録先は三件になった。
コハクからはしょっちゅう連絡がくる。
最初はメッセージアプリを使ってやりとりをしていたが、聡也が文字を打つのがあんまり遅いから痺れを切らして、いまでは主に電話でやりとりをしていた。
「おまえ、
コハクはポンポンと言葉を放つ。
聡也に合わせてゆっくりと会話をしてくれる琉斗とはまったく違っていて、彼の辞書に遠慮という文字はないようだった。
「聞いたことないもん」
「聞いたことないわけないだろ。車に鉄道、ホテルに病院、なんでもござれの大企業だろうが」
呆れたような声が電話から響く。
いったい彼がなにを言っているのかというと、琉斗がなにものかを聡也に教えてくれているのだ。
上條琉斗。
琉斗のフルネームを聡也はコハクに教えてもらって初めて知った。最初に名刺をもらっていたけれど、漢字が読めないのでそれは部屋の机の引き出しに仕舞ったままだ。
「リュウはそこの直系だよ。四男坊だから好き勝手できるつって、音楽事業部を立ち上げてライブハウスの経営やら音楽配信やらをやってるんだ」
「よんなんぼうって?」
「四番目。上に兄ちゃんが三人、姉ちゃんが二人。ついでに弟がひとり」
聡也は指を折って数えて、片手では足りなくなって電話を一度ベッドに置いた。
お兄さんが三人で、お姉さんが二人で、琉斗。
携帯を改めて耳に当て、聡也は首を傾げた。
「六番目だよ?」
「バッカ。四男ってのは男の数だけのことだよ」
コハクの良いところは聡也が尋ねたことに、面倒くさがらずに答えてくれるところだ。
これが施設の子どもたちだったら、ノウにはつきあってられない、と言って背を向けている。
「四男は、気楽?」
「そうそう。兄ちゃんらが跡継いでくれるから、好き勝手できんだろ」
そうなのだろうか。
聡也にはよくわからない。兄弟どころか家族も居ないから、琉斗にたくさんのお兄さんやお姉さんが居るのだなと思うと少し不思議な感じもした。
「まぁでも、そんなお気楽なお坊ちゃんでもそれなりのプレッシャーはあんのかな? そこのキッチン、やばいだろ?」
やばい?
聡也は首を傾ける。
「おい黙んな。ちゃんと話せ。コミュニケーションちゃんと取れ」
電話口で聡也が沈黙したら、すかさずコハクの注意が飛んでくる。
聡也は歌はスムーズに歌えるけれど、話すとなるとうまく自分の考えを表現できないから、言葉を見つけ出すのに時間がかかる。
それでもコハクが待っていてくれるから、ちゃんと自分の思いを口にできた。
「やばいの意味が、わかんない」
「なんだよおまえ、キッチンに入ったことねぇの? あ~、キッチンってわかるか、台所」
「わかる。冷蔵庫に、リュートがいつもジュース入れてくれてるの」
「冷蔵庫しか触ってねぇの?」
「食事は、かせいふさんが持って来てくれるから」
聡也の言葉に、コハクが笑い声が被った。
「まだあの二人来てんの? 浅間さんと重田さん。俺は重田さんのメシの方が好きだったなぁ」
「僕は、どっちも好き」
「おまえ、料理は自分でしねぇの?」
「パンは、焼く」
琉斗の家の冷蔵庫にはジャムの瓶が並んでいる。イチゴにオレンジ、リンゴにキウイ。きれいな色の小瓶がきれいに整列している様子を見るのが好きで、聡也はそれを見る為だけに冷蔵庫を開けるときもある。
聡也があんまり喜ぶからだろうか。冷蔵庫以外のべつの棚にも、たくさんのジャムがストックされていた。
イチゴのジャムは甘くて、オレンジのジャムは少し苦い。でもどのジャムもとても美味しいから、聡也は毎朝のパンの時間がとても楽しみになっていた。
「俺はそっち住んでたとき、たまに自分で作ったよ。重田さんのメシは上手いけどさ、チープなモン食べたくなるときもあるだろ。インスタントラーメンとか、安っぽいチャーハンとかさ。そういうの食べたくなったときに材料買ってきて、いざ野菜切ろうとしたら包丁がねぇの」
「包丁がないの?」
「探してみ。どこにもないから。いくら家政婦雇ってて、毎日料理運んでもらってるっつっても、包丁ぐらいあってふつうだろ? リュウってマジなんも料理しねぇんだなって思って、俺は買いに行ったわけよ、包丁を」
決まった時間には家政婦さんの料理が届くのに、わざわざ買いに行ったのか、と聡也は少し驚いた。
当時の自分の行動が面白かったのか、コハクの話す声にも笑いが混じる。
しかし彼の声はすぐにひそめられ、真面目なトーンになった。
「そしたら、どうなったと思う?」
「どうって、なにが?」
「リュウはどうしたと思うって聞いてんだよ」
聡也は首を傾げた。
コハクが包丁を買ってくることが琉斗になにか影響があるのだろうか。考えたけれどわからなくて、聡也はそのまま答えた。
「わかんない」
コハクが「あのな」と勿体ぶるような間を挟んで、回答をくれた。
「思いきり殴られて、包丁は速攻で捨てられた」
聡也は両目をまん丸に見開いた。
殴る、という言葉とふだんの琉斗がまったくかみ合わなくて、頭が混乱した。
「コハクが殴られたの?」
「そう」
「リュートに?」
「そうだっつってんじゃん。思いきりってのは盛ったかも。一応手加減はされたかな? よくわかんねぇけど。でもすげぇ剣幕でグーパン。そんで包丁は捨てられておしまい。」
剣呑な話題だというのに電話から聞こえてくるコハクの声は少しリズミカルで、いい声をしてるのだな、と聡也は思った。
あまり騒がしい音楽は苦手だけれど、コハクの歌なら聞いてもいいかもしれない。
想像すると楽しくなって、聡也はうふふと笑ってしまった。
「ナニ笑ってんだよ」
指摘をされて慌てて口元を引き締める。
「なんでもない。なんで、リュートは包丁捨てたの?」
聡也のその質問には、端的な答えが返ってきた。
「嫌いなんだってさ。刃物が」