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4-2

「刃物が嫌いなの?」

 と琉斗へ尋ねてみたのは、コハクから話を聞いたその日の夜のことだった。


 重田さんの運んできた夕食を二人で食べて、順番にお風呂に入ってから作業部屋で二人並んでソファに座り、聡也がふんふんと鼻歌を歌い、琉斗がそれに耳を傾けるだけの穏やかな時間を過ごしていたときに、ふと思いついて尋ねてみたのだ。


 琉斗が驚いたように目を大きくして、それから首を傾げた。


「誰に聞いたの?」

「コハク」

「いつの間に仲良くなったんだろう」


 苦笑いを唇によぎらせて、琉斗が頷いた。


「嫌いっていうか、苦手なんだよ」

「なんで?」

「さぁ? なんでだと思う?」


 逆に問われて、聡也は琉斗を仰ぎ見た。視線がぶつかる。琉斗が少し顔を近づけてきた。彼の冬のススキ色の瞳が、じっとこちらを見つめている。


「コハクは、すとれすじゃないかって」


 お坊ちゃんなりに俺らにはわかんないストレスがあるんだろ、とあの金髪の女性めいた美貌の彼はそう言っていた。そう答えたら琉斗が首を横に振った。


「コハクじゃなくて、聡也はどう思う?」

「……こわいから?」


 眼差しの強さに押されて、聡也の声が小さくなった。

 囁きの音で問えば、吐息のような笑みが返ってきた。


「そうだね。僕は刃物が怖いんだよ」


 あっさりと頷いて、琉斗が背もたれに深くもたれかかった。

 片腕を持ち上げて天井を仰いだ目を覆う。その姿勢のままで、琉斗がつぶやいた。


「怖いから、視界に入れたくない」 


 だからこの家には包丁がない。

 カッターナイフも、カミソリもない。

 ハサミは一本だけ。でも琉斗は使わない。

 必要なときはひとを呼ぶ。琉斗自身は刃物に触れない。

 髭剃りは電動で、それだってなるべく使いたくないから髭が濃い体質じゃなくて良かった。

 琉斗は可笑しそうに肩を揺らしたけれど、聡也はなんだかしょんぼりしてしまった。


 刃物が怖いと言う琉斗は、かわいそうだ。

 なぜかわからないけれど聡也の胸がしくしくして、両目を覆っている琉斗の胸もこんなふうに痛んでるのではないかと思えた。

 だから聡也はそっと手を伸ばして、琉斗の胸をさすった。

 琉斗がぎょっとしたように姿勢を戻して、聡也の手首を掴んだ。


「な、なに?」

「……胸が、いたいかなと思って」


 聡也の答えを聞いて、琉斗の唇に笑みがひらめいた。


「ええ? なにそれ。僕は胸の病気は持ってないよ」

「でも、いたいかなと思って」

「痛くないよ。大丈夫」


 笑った琉斗が、聡也の手を放す。

 もう一度琉斗の胸に触れることも、引っ込めることもできない手が宙に浮いていた。


 琉斗が眉を寄せて、苦いような、くるしいような顔つきになり、それからまた微笑んだ。


「聡也」 


 彼の指がしずかに動いて、聡也の手の甲をなぞる。


「痛くないけど、もう一度さすってくれる? きみの手は気持ちいいから」


 促され、聡也は琉斗の目を見た。

 三日月のようにやさしく細まった双眸が、音もなくまたたく。


 背中をクッションに沈めた琉斗が、そのまま目を閉じた。

 唇は笑みの形のままだった。


 聡也はおずおずと手を伸ばして、なめらか生地の琉斗のパジャマの胸元にてのひらを乗せた。そのまま上下に手を動かすと、琉斗の笑いの振動がてのひらを伝わってきた。


「ふふ。くすぐったい」


 彼の笑い声は、いつものやさしいもので。

 刃物の話をしたときのようなかなしい色はどこにもなくて、聡也は嬉しくなった。


 ポカポカとした気分が湧いてきて、聡也は琉斗の胸を繰り返し撫でた。そうしているうちに歌が降りてきて、口ずさむ。

 やわらかで陽だまりのような旋律が、琉斗の『すとれす』をなくしてくれればいいのにと、祈りながら歌う。


 時折、琉斗の指がたわむれに聡也のそれに絡む。するりと逃げると、追いかけてくる。指の鬼ごっこだ。琉斗は目を閉じたままだから、目隠し鬼かもしれない。

 指が触れる。逃げる。また絡まる。


 聡也の手を探る琉斗の指はしなやかに長くて、手の甲に浮いた筋ですらきれいだった。

 聡也の手荒れは、この家に来てからだいぶ改善されている。でも短い指は琉斗に比べると子どものようで、それが少し恥ずかしい。

 恥ずかしいけれど、鬼ごっこは楽しくて、聡也は歌いながら笑った。


「聡也」

「ん?」

「僕の名前を呼んで」


 甘えるように、琉斗が口にした。


「リュート」


 乞われるままに彼を呼ぶと、

「もう一度」

 とリクエストされる。


「リュート。リュート」

「聡也の声、好きだな。何度も呼ばれたくなる」


 しずかな微笑が、琉斗の唇に広がった。

 聡也は「リュート」の音を数度繰り返して、うふふと笑い声をこぼした。


「リュートの歌が、できちゃいそう」

「いいねそれ。聴かせてほしいな」


 琉斗がまぶたを持ち上げて、聡也を見た。

 促すようにまばたきをされて、聡也は唇を開いた。


 りゅ、う、と、の言葉だけで構成された、でたらめな歌。

 聡也は思いつくままにメロディを紡いだ。


 気づけば琉斗の胸の上で、二人の指はくっついて絡まっていた。    










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