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5-1


 聡也の周りが騒がしくなってきた。

 最近は琉斗がどこに行くにも聡也を伴うから、琉斗に寄ってくるひとたちに、聡也も自然と取り囲まれることになる。


 ひとの多いところは、聡也にとっては息苦しくてしんどい。

 彼らの奏でる物音や話し声が、聡也の中に降りてくる音楽をかき消してしまうから、しんどいし、かなしくなる。

 あの河川敷で歌いたい。川の水音、鳥や虫の鳴き声、風が揺らす葉擦れの音……そられを聴きながら、歌いたい。


 けれど聡也は唇を引き結び、そういったことは口にしないように気をつけていた。


 なぜなら琉斗がいつもニコニコして、嬉しそうだったから。


「聡也、歌っていいよ」


 琉斗はいつも聡也のための舞台を整え、歌う場所をつくってくれる。


 歌っていいよ。

 歌ってほしい。

 歌を聴かせて。


 琉斗がやわらかな笑顔でそう言うたびに、聡也は歌った。

 聡也が歌うと琉斗はますます喜んだ。

 聡也、きみがもっと好きに歌えるように頑張るね。

 そう言って彼はますます聡也の売り込みに心血を注ぐ。


 気づけば聡也はいつの間にか、『SOU』という名前で社会に認知されていた。

 琉斗が動けば動くほどに、聡也の周りに知らない顔が増えてゆく。


「SOUの新曲良かったよ」

「次は決まってるの?」

「俺とコラボしない?」


 いろんなひとが口々に話かけてくるので、外に出るたびに聡也は疲れてしまう。けれど琉斗はニコニコ笑ってる。聡也を囲む人数が増えるたびに彼の笑顔は深くなる。


「僕が好きなだけきみを歌わせてあげるからね」


 琉斗は口癖のようにそう繰り返す。

 それが自分の使命だといわんばかりに、聡也のために骨惜しみなく動いてくれる。

 そのせいで琉斗はどんどん忙しくなっている。

 そんなに頑張らなくていいよ、と聡也が言っても笑うだけだ。

 家で二人で過ごす時間も、日に日に目に見えて減っていった。


「僕になにかできることない?」


 あまりに忙しそうな彼を見て、聡也はそう問いかけたことがある。

 けれど琉斗は目を丸くして、それからいつものようにやさしく笑ってこう答えるだけだった。


「聡也は歌ってるだけでいいんだよ。きみの歌が、僕の喜びだ」



 歌う以外なにもさせてもらえない聡也は、ライブの日も、出番まで控室でぽつねんと過ごす。


 今日はピアニストのなんとかというひとと一緒にステージに立つ。

 本当は琉斗のギターの方が好きだけれど、ピアニストはとても有名なひとのようで、琉斗が伝手を辿ってなんとかセッティングできたと喜んでいたからわがままは言えなかった。


「よう」


 ノックもなく扉が開けられ、聡也は驚いて立ち上がった。

 金色の髪をきらめかせて顔を覗かせたのは、コハクだった。


「コハク」

「なんだそのツラ」

「つら?」

「景気悪そうな顔してんなよ。この俺が聴きにきてやったんだから」


 唇の端で、コハクが笑った。

 聡也もつられて微笑みながら、彼の傍へと小走りで近寄った。


「相変わらずもさもさの頭してんな。切らねぇの?」


 聡也の髪をぐしゃりとかき混ぜて、コハクが問うてくる。

 毛先があちこちに跳ねる癖の強い髪は、両目を覆うほどに伸びている。聡也は前髪を引っ張って、手を離した。くるん、と回った毛先が睫毛に当たる。


「いろんなひとの顔が見えるのが、しんどいから」


 ぼそぼそと小声で答えると、コハクが形の良い眉を不快げに歪めた。


「ほんっとその性格、この業界に向いてねぇよな。まぁ歌はマシになってきたけど。ボイトレ、通ってんの?」


 質問の意味がわからずに聡也が小首を傾げると、ボイストレーニング、とコハクが言い直してくれる。


「うん。リュートが、行っておいでって言うから」

「榊のオッサンとこだろ。俺も昔行かされたわ」

「榊さん、やさしいよ」

「誰でも彼でもやさしいつってホイホイなついてんじゃねぇぞ」


 バシ、と聡也の頭を軽くはたいて、コハクが呆れたように鼻から息を吐き出す。


「で、そのリュウは? おまえ置いてどこ行った?」

「リハーサルのときから、いろいろうちあわせがあるって」

「忙しい男だよな、あいつは」

「うん」


 うつむくようにして頷くと、また頭をはたかれた。


「おい。しょげんな。今度俺のライブに呼んでやるから」

「いや」


 コハクの申し出を聡也は即座に断った。コハクの目が胡乱げに細められる。


「嫌だぁ?」

「コハクの声は好きだけど、音楽がさわがしいから、いや」


 以前琉斗にコハクの歌を聞かせてもらったとき、スピーカーから流れてきた爆音に聡也は驚いてしまった。

 コハクはロックバンドを組んでいて、その曲調は激しく、うねるようなギターのサウンドが聡也には合わなかった。

 それにコハクのバンドはものすごく人気があるから、会場もものすごく大きくて、聡也が今日歌うこのライブハウスとは比べ物にならないぐらい、お客さんもたくさんたくさん入ってる。

 だから、行きたいとは思わなかった。


 きっぱりとそう告げた聡也を、コハクは怒ったりしなかった。

 ただ、少しだけ声のトーンを落として、先ほど聡也がしたように聡也の前髪を軽く引っ張ってきた。


「そうやって、俺に遠慮せずにものが言えんだからさ、リュウにも言いたいことハッキリ言えよ。おまえ、なんかしんどそうに見える」


 聡也はもごりと曖昧に唇を動かした。


 琉斗に言いたいこと……。

 たとえば、あの河原で歌えるだけで満足している、とか。

 ステージで歌うのは胃がしくしくしてしんどい、とか。

 歌う以外なにもしなくていいよ、と言われるとさびしくなる、とか。

 そういう、これまでに飲み込んできた言葉を伝えた方が良い、ということだろうか。


 でも、たとえばそれを聡也が口にしてしまったら。

 琉斗のあの笑顔が、曇ってしまうかもしれない。

 聡也が歌うたびに笑ってくれる、あのやさしい顔が、かなしく歪んでしまうかもしれない。


 それを考えると、聡也は、自分の気持ちが声に出せなくなる。

 琉斗をかなしませてしまうなら、自分が我慢する方がよかった。


「僕、リュートに言いたいことなんて、ない」


 聡也は首を振って、コハクへと笑ってみせた。とたんにコハクのきれいな顔が険しくなった。


「じゃあそうやっていつまでも、リュウの言いなりになってんのかよっ!」


 ドン、とてのひらで胸を突かれた。聡也は一歩後ろへよろめいた。痛みはまったくなかった。でもコハクは罰の悪そうな表情をよぎらせ、鼻筋にしわを作った。


「悪い。でも、」

「僕、いいなりで、いいよ」

「おい」

「前にコハクが、言ったでしょ。いつかリュートに捨てられるって」


 コハクの目がハッとしたように見開かれた。彼の薄い唇がもごりと動いた。


「あれは……」

「僕、それまではリュートのいいなりでいいよ。ずっとのことじゃないから、それまではリュートに笑っててほしいの」


 きっと、長い期間のことじゃない。

 琉斗にさよならを言われるまでの、ほんのわずかのことだろうから。


「僕、リュートの言うこと、なんでもきくよ」


 聡也はコハクを見つめて、笑いながらそう告げた。

 コハクはまだ険しい顔をしていたけれど、金の髪は蛍光灯の光を受けてキラキラと光っていてやっぱりきれいだった。


 月の色の髪に束の間見惚れた聡也は、ふと、コハクの肩越しに見える控室のドアが開いていることに気づいた。

 コハクが入って来たときにちゃんと閉じていなかったのだろう。

 聡也の目線を辿って、

「わり。開けっ放しだった」

 と謝ったコハクが体を捻り、パタン、とそれを閉じた。


 聡也に向き直ったときにはコハクの表情から険はもう抜け落ちていて。


「出番まで時間つぶし、付き合ってやるよ」


 彼はそう言って、カラリと笑った。

 聡也は嬉しくなって、つられて微笑みながらコハクとの時間を楽しんだ。 











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