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5-3


 比内に連れて行かれたのは、繁華街の裏路地にある、光が目まぐるしく明滅する地下のフロアだった。

 入口にある鉄の扉を開けた瞬間にどぅっと爆音が襲い掛かってきて、あまりの激しさに聡也はよろめいた。

 たたらを踏む聡也の腕を比内が掴み、ぐいぐいと引っ張って奥へ奥へと進んでゆく。行き交うひとの隙間を縫うようにして男は歩いた。聡也の足は何度ももつれた。けれど比内の歩くスピードは落ちなかった。最後の方は比内にほとんど抱えられていたのかもしれない。


 フロアの奥には個室があって、比内は躊躇もなくドアを開けて聡也を引っ張り込んだ。

 背後でドアが閉じると爆音がいくらかやわらいだが、それにホッとする暇もなく今度は白い煙が聡也の呼吸を苦しくさせた。ケホっ、と小さな咳がでた。


 室内では総勢五名の男がタバコをくゆらせている。彼らの吐き出す煙が充満していて、視界すら白く濁っている。


 比内が聡也の肩を抱き寄せ、耳元でささやいた。


「彼らが今度のリュウのパトロンだ」


 意味がわからずに聡也は首を傾げた。ぱとろんってなんだろう?

 きょとんとする聡也に、比内がわずかに苛立ったように眉をひそめる。


「出資者だよ出資者。リュウの企画に金を出してくれるひと!」


 なるほど、彼らが琉斗にお金をくれるひとたち。

 そう納得して、そしてちょっとした引っかかりを覚える。


 でもコハクは、琉斗はお金持ちだって言ってたのに、お金を出してくれるひとが必要なんだろうか?

 それとも、頭が足りないと方々《ほうぼう》で揶揄されてきた聡也にはわからない、複雑な関係性があるのか。


 混乱する聡也の背を押したのは、耳に流れ込んでくる比内の言葉だった。


「リュウがおまえに、接待を任せたいって言ってたぜ」

「せったい?」

「あのひとらのご機嫌とりだよ。おまえが彼らに気に入ってもらえれば、リュウは仕事がしやすくなる。うまくやればリュウに感謝されるぜ?」


 リュウに感謝される。

 聡也は首を横に振った。

 感謝されたいわけじゃない。ありがとうと言われたいわけじゃない。

 聡也がしたいのは、そういうことじゃない。

 それよりも……。


「僕が、うまくやれば、リュートはよろこぶ?」


 聡也は顔を捻って比内を見た。男のひげが頬に当たってチクリとした。

 比内が満面の笑みを浮かべて、頷いた。


「もちろん大喜びするさ」

「僕、なんでもするよ」

「いい子だ」


 比内のてのひらが後頭部を這った、かと思うと聡也はそのまま前へ突き出された。

 足がもつれて倒れ込んだ先は、ひとりの男の足元で。聡也の目の前で黒い革靴がテカテカと光っていた。


「大丈夫か?」 


 革靴の足を動かしてわざわざ立ち上がった男が、聡也を抱き起してくれた。


「ご、ごめんなさい」


 謝りながら聡也は、なにをすればこの男たちの機嫌がとれるのだろうかと考えた。


 五人の中で、ひときわ異彩を放っているのが、真ん中にどかりと座っているスーツ姿の男だ。

 彼が一番『えらいひと』なのだということは、聡也ですらわかった。


 その『えらいひと』が、聡也が立ち上がるのを待って問いかけてきた。


「おまえ、歌が上手いんだって?」


 低く太い声だった。

 耳馴染みは悪くないのに、どこか怖くもある。


 聡也はチラと比内を振り向いた。比内は早く答えろとせっつくように目配せを送ってきた。


 聡也は困ってしまい、唇をもぞりと動かした。


 歌が好きか、と聞かれていたら迷いなく頷くことができたけど、上手いかどうかと尋ねられても自分では判断がつかない。

 答えあぐねていると、『えらいひと』が唇の端で笑った。


「ちょっと歌ってみてくれよ」


 背もたれにもたれ、ゆったりと足を組んだ男が口角を上げたままの唇にタバコを咥えた。すぐ横に座っていた茶髪が即座に火を差し出した。

 赤い炎がタバコの先を炙った。

 それを見るともなく見ていたら、脈絡もなく、刃物が怖いと言っていた琉斗の顔が浮かんできた。


 かなしい色を滲ませた琉斗を見たくなくて、彼の胸から痛みがなくなるように、そこをさすりながら歌った。たわむれのように絡んできた琉斗の指が、きれいだった。キラキラとした、聡也の中のたいせつな時間だ。


 今日聡也がこの『えらいひと』たちに気に入られたら、琉斗は喜んでくれる。あのときのようにやさしく笑ってくれるだろう。

 聡也は息を吸い込んだ。

 タバコの煙が流れてきて、ムセそうになる。それをこらえて、あ、と声を出した。


 ドアの向こうの騒音。男たちの視線。煙で満ちた空気。

 その中で歌の気配を探り、手繰り寄せる。無理やりに声を出す。


 今日ステージでピアノの伴奏を受けて歌った曲は、琉斗と一緒に作った曲だ。河川敷の橋の下で、冬の冷たさを感じながら、裸足で地面を踏みしめて歌った歌だ。

 そのときの気持ちを思い出しながら、聡也は声を出した。


 しかしいくらも歌わないうちに、ガタン、という音にリズムを阻まれた。


「おっと手が滑った」


 『えらいひと』が右手をわざとらしく振った。


 見れば聡也の足元に、細長い銀色のケースが転がっていた。


「拾ってくれるか」


 男に言われて、聡也は歌うのをやめてそれを拾い上げた。


「持って来てくれ」


 手招かれ、聡也は『えらいひと』の傍へと近寄る。

 男の前に立ったとき、突然手首を掴まれた。


「座れ」

 と言われたがどこに座ればいいかわからない。ソファの座席はすべて男たちで埋まっている。


 『えらいひと』が大きく開いた足の間を指さして、「座れ」と繰り返した。

 背後から比内が聡也の肩を押してきた。

 聡也はおずおずと男の足の間に立った。『えらいひと』が聡也の膝の後ろをトンと叩いた。かくりと膝が曲がるのと同時に腕を引かれて、聡也は男の右の太ももに座らされた。

 反射的に立ち上がろうとしたが、それは男に阻まれた。


「それを開けてくれ」


 『えらいひと』が顎をしゃくり、銀色のケースを示す。

 聡也は言われるままにふたを開いた。

 中に入っていたのは注射器だった。

 ぎょっとしてケースごと取り落しそうになったが、素早く伸びてきた茶髪の手がそれをガードした。


 聡也の手から銀色のケースが取り上げられた。代わりに細いゴムのチューブのようなものが与えられる。


「見なさい」


 『えらいひと』がひとさし指を動かした。それの示す先を辿ると、ピアスをたくさんつけた派手なシャツの男が、聡也と同じチューブを手にしていた。

 男はそれを自身の左腕に巻き付け、先端についている金具を使ってキュッと留めた。


「やってごらん」


 『えらいひと』が聡也へと囁いた。






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