「ぼ、僕がするの?」
「見てただろう? 同じようにするんだ」
自慢じゃないが聡也は不器用だ。一度見ただけで覚えられるはずもなかったし、同じようにできるはずもなかった。
どもりながら「できない」と聡也は訴えたが、男たちは怒ったりはせずに、むしろなんども繰り返し聡也の前で腕にチューブを巻きつけては留める、という動作を行った。
聡也がたどたどしい手つきでなんとかチューブを腕に巻くと、『えらいひと』が聡也の左の手首に指先で触れて、なにかを確かめてから、「いいだろう」とひとつ頷いた。
次にさせられたのは四角いコットンで、伸ばした腕の内側を拭くことだった。
ひんやりとした感触に聡也は身を竦めた。
『えらいひと』が「おい」と声を出すと、茶髪が銀のケースを聡也に差し出してきた。
「取りなさい」
「え?」
「それを手に持つんだ」
促されて、聡也はおっかなびっくりの手つきで注射器をケースから取り上げた。
施設では他の子どもたちと一緒に、なんどか白衣の『お医者さん』に注射を打たれたことがある。
泣き出す子も居たけれど、聡也は泣いたりしなかった。必要以上に注射を恐れなかったが、その細い針が皮膚をぷつりと突き刺す瞬間は、やはり怖くて目を背けていたのを覚えている。
その注射が、いま、聡也の手の中にある。
これをどうするのだろう、と聡也は戸惑った。
この段になっても、注射は医者がするものという先入観があったため、自らの手で注射を打つ、という発想が聡也にはなかった。
次になにをすべきか、この場では聡也だけがそれをわかっていなかったから、ひたすらにおどおどしていた。
『えらいひと』の指が、聡也の腕に触れた。
「手をグーにしろ」
男の指示とともに、派手なシャツの男が聡也の目の前で親指を握り込む形でこぶしを作る。それを真似した聡也へと、『えらいひと』が言った。
「ここだ。ここに刺せ」
「……え?」
「おまえの手で、ここに注射をするんだ」
「僕が、僕に?」
「そうだ」
「僕、お医者さんじゃない」
「俺も違う」
『えらいひと』がそう答えて、低い笑いを漏らした。それは周囲へと伝播して聡也を囲む男たちがワハハと声を上げる。
聡也もつられて笑った。笑っていると楽しい気分になれるので、聡也は笑うことが好きだった。
「おい、やって見せてやれ」
『えらいひと』が派手なシャツの男へと命令した。
「おっ、いいんスか、ラッキー」
へらりと笑った男が新たな銀ケースを取り出すと、慣れた手つきでゴムチューブを腕に巻き、ひんやりとしたコットンを皮膚に滑らせて、親指を内側にして指を握り締めると、そのまま流れるような動作で注射針を腕に刺した。
中の液体が男の腕へと吸い込まれてゆく。
「慣れりゃカンタンカンタン」
鼻歌混じりに、男が針を抜いた。ゴムチューブを外して、左手をぶらぶら動かしながら、男が「はいどーぞ」と聡也にてのひらを向けてきた。
『えらいひと』が頷き、
「やってみろ」
と聡也を促す。
聡也はギクシャクと首を横に動かした。
「ぼ、僕」
できません、と言おうとして唇を開く、その前に。
「リュウのためになんでもするってのは、嘘か」
男が呆れたようにつぶやいた。
聡也はハッとして身じろいだ。
「おまえができないなら、今回の話はなしだ」
「そ、そんなぁっ」
失望に叫んだのは聡也ではなく、比内だった。
頭を抱えた比内が男の前に走り出て、土下座せんばかりの勢いで膝をついた。
「考え直してくださいっ! リュウは今回の件に本当に力を入れていてっ。あなたとの契約が結べなかったとなると、どれほどリュウがかなしむか!」
比内の大声に、聡也は雷に打たれたかのような衝撃を感じた。
琉斗がかなしむ! 聡也がきちんとできないせいで琉斗をかなしませるなんてこと、ぜったいにしてはいけない。
「僕、やります!」
聡也は咄嗟に立ち上がり、宣言した。
「僕、ちゃんとやります。だからリュートの、ぱ、ぱとろん? になってください!」
勢いをつけて聡也は頭を下げた。しばらくそのままの姿勢でいると、笑い声が降って来た。
「威勢がいいな」
『えらいひと』が笑いながら聡也の手を引いて、また右の太ももの上に座らせた。
男の手が、左腕に巻かれたままだったゴムチューブをパチンと外した。血流が滞っていたせいで色の変わった皮膚を、『えらいひと』がてのひらでさする。
聡也の左手が元の色を取り戻すのを待って、男がゴムチューブを聡也へ手渡してきた。
「最初からやってみろ」
聡也は頷き、派手なシャツの男に比べると段違いにつたない動きで、先ほど教えられた行為をなぞった。
下準備を終えて注射器を右手に持った聡也は、ごくりと生唾を飲んだ。
これが上手くできれば、琉斗が喜ぶ。
おまじないのようにそれをこころの中で唱え、意を決して腕に針を刺した。
痛みよりも緊張で手が震えた。
はふ、はふ、と胸を喘がせた聡也へと、『えらいひと』が、
「後ろの部分を押し込むんだ」
と指示を与えてくる。
聡也は動きにくい指をなんとか動かして、注射器の後ろを押した。
中の液体が針を伝って聡也の血管の中へと注ぎこまれてゆく。
それを確認して、聡也はホッと肩の力を抜いた。
『えらいひと』が聡也の腕から注射針を抜いてくれた。ゴムチューブも外された。
けれど聡也は動けない。男の太ももの上から立ち上がれない。
「どうだ?」
男が聡也の前髪を掻き上げながら、問いかけてくる。
質問の意味がわからない。
わからないけれどなんだか可笑しくなってきて、聡也はうふふと笑った。
一度笑うと止まらなくなってきた。
楽しい。楽しい。
歌が降りてくる。
河川敷で琉斗と二人で歌っているときみたいだ。光のように音が降り注いでくるから、聡也は仰向けになってそれを全身で受け止めた。
興奮で汗が滲んでくる。
誰かが気を利かせたのか、聡也から衣類をはぎとってくれた。
嬉しい。
この音楽は生身で感じなくてはいけない。服は邪魔だ。邪魔なものは脱いでしまわないと。
すべてを脱ぎ捨てて全裸になった聡也へと、ひと肌がぶつかってきた。
皮膚が合わさる。その体温に聡也は溶けた。
気持ちいい気持ちいい気持ちいい。
ああでも誰かの声がうるさい。音楽が聞こえない。少し声を小さくしてほしい。
そう願って耳を澄ましてみたけれど、「あっ、あっ、あっ、あっ」と弾むような声はますます大きくなるばかりだ。
歌。
歌を探さなくては。降りてきた歌を、歌わなければ。
聡也は口を開いた。
歌いたいのになにかが入り込んできて、聡也の口を塞いでしまう。
邪魔だなと思ったけれど仕方なくしゃぶった。それは聡也の口の中でどんどん大きくなってゆき、やがてどろりとした青臭く苦い液体を吐き出した。
聡也はそれをごくごくと飲んだ。
これで口が自由になる。
そう思ったのに「あっ、あっ」という声がますます耳に響いて、聡也は首を振った。
しずかにして。少ししずかにして。歌が逃げてしまうから。
「ああっ!」
ひときわ甲高い声が上がった。
その時点で聡也はようやく気付いた。
歌の邪魔をしていた声は、聡也自身の喉から出たものだった。
なんだ僕の声か。
拍子抜けして、聡也は笑った。
可笑しくて可笑しくて仕方なかった。
世界は歌で満ちていた。