聡也は床に手をつき、横倒しになっていた姿勢から、ゆっくりと立ち上がった。したたかにぶつけた左の太ももがずきりと痛んだ。太ももだけじゃない。体全体が重怠く、痛い。
聡也はうずくまったままの琉斗を見下ろした。
彼の背中が描く丸いカーブが、聡也を拒絶するバリアのように見えて、声をかけることすら躊躇われた。
自分が、かなしませてしまった。
聡也は自分がなにをしたのか、自分の身になにが起こったのかほとんど理解できていなかったが、そのことだけは痛いほどわかっていた。
自分が琉斗を、かなしませてしまった。
うまくできなくてごめんなさい。
聡也は唇だけを動かして、琉斗へと謝った。
声を出したら、琉斗がもっとかなしんでしまいそうだったから、ささやきほどの音もだせずに、ごめんなさいと謝った。
聡也がノウナシじゃなかったら、ふつうのひとのように賢かったら、もっと上手く、琉斗が喜ぶことをしてあげられたのに。
聡也は琉斗の背中に向かって深々と頭を下げた。
うまくできなくてごめんなさい。
リュートをかなしませてごめんなさい。
がっかりさせてごめんなさい。
『計画』をじゃましてしまってごめんなさい。
伝えきれないごめんなさいと一緒に、たくさんのありがとうが溢れてきた。
僕にやさしくしてくれてありがとう。
歌を歌わせてくれてありがとう。
ギターを弾いてくれてありがとう。
名前を呼んでくれてありがとう。
たくさんのジャムをありがとう。
僕の歌が好きだと言ってくれてありがとう。
冬の日に琉斗に声をかけてもらい、彼と一緒に過ごした数か月は、聡也の二十年の人生で間違いなく、一番しあわせな時間だった。
リュート、ごめんなさい、ありがとう。
唇を動かして声もなくそれを伝え、聡也は作業部屋を出た。
一度自分の部屋へ寄って、数枚の着替えをバッグへ詰め込んだ。財布から千円だけを貰って、残りは聡也が貴重品入れにしている巾着へ突っ込んだ。
無駄遣いをしてはいけないと、就労支援施設の相談員から言われていたので、日雇いで得た収入をこの巾着に入れるようにしていた。入っているのは貯金とも言えないほどの微々たる額だ。
その巾着を聡也はリビングのテーブルの上へ置いた。本当はお礼の手紙をつけたかったけれど、聡也はひらがなしか書けない上に字が下手くそで、そんな手紙をもらっても迷惑なだけだと知っていた。
実際、十八歳で施設を出るとき、職員さんに渡した感謝の手紙はすぐにゴミ箱行きになっていた。忘れ物を取りに戻ったら、他のゴミと一緒に捨てられているのを見てしまった。
聡也の手紙はゴミなのだ、と理解した。いらないものをあげてしまって、申し訳ないと思った。
その経験があって良かった。琉斗にゴミを残さなくてすむ。
聡也の手紙よりは、まだこの巾着のほうが役に立つ。
琉斗はお金持ちだからお金を貰っても喜ばないかもしれないが、他にどうお礼をしていいかわからなかったので、せめてもの気持ちとしてこの巾着をあげたかった。
聡也はバッグを肩に掛けると、玄関で振り向いてもう一度頭を下げた。
靴に片足ずつを突っ込んで、トントンと爪先をうちつける。リズミカルな音が鳴ったけれど、聡也の胸はいつものようには弾まなかった。
もう戻っては来られない。
さびしさで胸が塞がれた。でもさびしいだけじゃなかった。琉斗との思い出がたくさんあった。
それを大事に大事に抱え込んで、聡也は琉斗の家を出た。
夕焼けの色はもう名残も見当たらず、空は深い藍色に染まっていた。
河原へ行こう、と思い立って聡也は夜の中を歩いた。
気怠い体は重くて、聡也は途中なんども休憩を挟みながら河川敷へと向かった。
ようやく街灯が照らす橋へたどり着き、草の生えた土手を下りる。坂道で踏ん張り切れずに転んだ。そのままゴロゴロと傾斜を転がり落ちた。
あちこちをぶつけて痛かったが、聡也はなんとか立ち上がり、いつもの場所へと到着した。
夜の高架橋は闇に沈んでしずかだった。
なんだか久しぶりにここを訪れたような気がして、聡也はしばらく橋の裏側を見上げていた。
今晩はこのままここで過ごして、明日になったら就労支援施設に電話をしようと決めた。幸い季節は夏に向かっていて、夜も寒くはなかった。
聡也はカバンを橋脚の下に置いて、靴を脱ぎ、裸足になった。
土や草、小石の感触を確かめて、歌を探した。
夜空には星や月が光っていて、時折行き交う車のヘッドライトですらきれいに見えた。それなのに歌が中々降りてこない。
なんだか体の中心がむずむずとしていて、まったく集中できないからだ。
聡也はみぞおちをさすった。
体が熱い。火照りが腹の奥から湧き出てきて、聡也を落ち着かない気分にさせた。
ふと見ると、みぞおちよりもさらに下、股間の部分が膨らんでいた。ズボン越しに触ってみると、聡也の性器が勃起していた。
これまでにも朝起きたらそこが膨らんでいた、ということがなんどかあったけれど、なぜいまそれが起こったのかがわからない。
混乱する聡也の腹の奥が、ずくりと疼いた。それに呼応するように硬くなった性器がぴくりと動いた。
なんだろう、この熱は。
恐ろしくなって、聡也は川の方へ歩いた。
体を動かすたびに服が皮膚をこする。その感触すらぞわぞわして、下腹部にまた熱が溜まる。
聡也の耳の奥に、「あっ、あっ、あっ」と途切れ途切れの声がよみがえった。それと同時に、誰かに性器を弄られている映像がひらめいた。
なんだこれは。聡也は戸惑い、足を速めた。
おかしい。体もおかしいし、頭もおかしい。
聡也はざぶりと川に足を突っ込んだ。足の裏に尖った石が当たる。痛い。けれどいまはこの体の熱をどうにかするほうが先だった。
冷たい水を浴びれば火照りは消えるだろうと思い、ざぶり、ざぶりと足を踏み出す。
ズボンが濡れた。脱いでから川に入れば良かったと後悔したが、すぐにまぁいいかと思い直す。
それよりも早く熱を取り払いたかった。
水は膝の上まできている。もう少し進んでも大丈夫だろう。
そう判断した聡也は川の流れにもっていかれないように足を踏ん張りながら、もう一歩前へと左足を出した。
足裏が川底を捉える、と思われたが、予想よりもそこは深くなっていた。
聡也はバランスを崩し、バシャンと川へ倒れ込んだ。
全身に、ごう、と水が襲い掛かってくる。
聡也の体は木の葉のように流された。
手足を闇雲に動かしてなんとか浅瀬に戻ろうと抗ったが、鼻や口に水が入って来て息ができなくなった。
苦しい、苦しい、と聡也は悶えたが川の流れは衰えることなく聡也を覆い流してゆく。
振り回していた手足は重くなり、動きが徐々に鈍くなる。
やがて聡也は目を閉じた。もういいか、と思った。
だって、体がこんなにもしんどいから。
もう頑張らなくてもいいか、という気持ちになる。
聡也は水を掻き分けていた手足の動きも止めた。
脳裏にふと、琉斗の顔が浮かんだ。
彼の表情は険しくて……とてもかなしそうで。
せめて笑顔を思い出したかった、と聡也は流されながら、そう思った。