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雑音 5-1


 ぐらり、と聡也の視界が回った。


 『雑音』のかつての記憶が見せる風景が、ものすごい勢いで聡也の中を通り抜け、遠ざかってゆく。


 琉斗の暴力、領民からの迫害、地下室への幽閉、それらを経てついには魔女に家など要らないだろうと馬小屋の隅に追いやられた過程が見えた。


 藁をかぶり、厩舎で寝起きする『雑音』は逃げ出すこともせずに、『木漏れ日』領で暮らし続けた。

 そもそも逃げる場所などなかった。

 『雑音』には誰も居ない。

 両親も『祝福』興も『木漏れ日』興夫妻も死んでしまった。

 「おまえの味方だ」と言ってくれた琉斗ももう居ない。

 居るのは冷たく凍える目をした、若き伯爵だけだ。


 琉斗の『雑音』への仕打ちは、『雑音』が両親を治さなかったことを恨んでのものだろうと、聡也は思った。

 いつか琉斗自身の手で『雑音』を殺すために、生かしているのだ。


 次々に襲い掛かってくる記憶の波にのまれて、聡也はそれに押し流されながら(僕はどうすればいいの)と問いかけた。


 僕はどうすればいいの。

 これを僕に見せてどうしたいの。


 溺れそうになりながらも、必死に『雑音』に話しかける。


「…………て」


 声が聞こえた。

 聡也はその方向へ手を伸ばした。


 激しい流れが聡也の全身を包んだ。暗闇に飲み込まれてゆく。

 待って、待って、もう一回言って。

 僕に聞こえるように言って!

 聡也が声にならぬ声で、そう叫んだとき。


「彼をたすけて」


 はっきりと、『雑音』の言葉が響いた。


 彼を、たすけて。


 琉斗を?

 たすける? なにから? どうやって?

 聡也は『繰り返す』ことしかできないのに。

 なにをどうすればたすけることができるのか。


「お願い、彼をたすけて」


 『雑音』のその言葉を最後に、聡也の意識は途切れた。 



 真っ暗な世界で誰かに肩を叩かれ、聡也はハッと覚醒した。

 金髪の琉斗が、こちらを見下ろしていた。彼の背後では厩舎が燃えていて、熱風が皮膚にヒリヒリと当たって痛かった。


「動くな」

 と、琉斗が冷たい口調で言った。


 あの火事の夜に『戻った』のだ、と聡也は理解した。


 聡也の意識は『雑音』の体の中に入っていて、『雑音』の体験をなぞることしかできない。指の一本だって聡也の思い通りには動かない。

 それなのになぜ、『繰り返』さなければならないのか。


(たすけるって、僕はなにをすればいいの)


 『雑音』の中で、聡也は問いかけてみたが、思考はやはり一方通行で、答えは返ってこなかった。


「伯爵、ご無事ですか!」

「伯爵、この火事はなにごとです!」


 火事に気付いた使用人たちが駆けつけてきて、琉斗が彼らへ消火の指示を与えるのを見ながら、聡也は、そういえばこの琉斗はいま何歳なのだろうか、とふと思う。

 『雑音』の記憶では琉斗が二十三歳になったら改めて『雑音』の処刑を決める、と言っていたが、このときがもう、そのタイミングだったのだろうか。


 魔女狩りに『雑音』を託すのではなく、どうしても自分の手で殺したかったから、琉斗は厩舎に火をつけたのだろうか。


 『雑音』の記憶はだいぶ戻ったけれど、まだわからないことの方が多くて、聡也は混乱しながらも琉斗を見つめ続けた。

 聡也がこうして琉斗の姿を観察できる、ということは、『雑音』の視線が彼からいっときも逸れていない、ということだ。

 それもまた、不思議なことだった。


 『雑音』はあの日以降……琉斗の両親が亡くなり、領民たちの前で魔女だと罵られて以降、琉斗とはほとんど口をきいていなかったし、話そうとすれば殴られ、名前すら呼んでもらえず、散々な目に遭ってきたのに。

 おまえの味方だ、と子どもの頃に言ってもらったことが嬉しかったのか、森で遊んだ思い出を忘れられないからか、『雑音』の中には琉斗に対する恨みなどの感情はほんのわずかも存在していなかった。

 むしろ、彼をたすけて、と聡也に訴えている。


 聡也は琉斗が好きだった。

 この伯爵の琉斗は怖いけれど、『元の世界』の琉斗と同じ顔をしているので悪い感情は持てなかった。それどころか『雑音』に引きずられて、金髪の琉斗をたすけたいとすら思う。


 でも方法がわからない。

 聡也が『この世界』でいったいなにをすれば、琉斗をたすけることになるのか。


 手っ取り早い方法は、『雑音』が死ぬことだと思う。

 琉斗は『雑音』を恨んでいるから、彼の目の前で、彼の気のすむような死に方をすれば、少しは贖罪になるだろう。

 断頭台で首を斬られることが、琉斗の望んだ結末でないのなら、この火事で焼け死んでおけば良かったということか。

 『木漏れ日』卿も言っていたではないか。魔女の処刑は本来、火あぶりだったと。

 あの燃える厩舎へ戻ることができれば、琉斗の願いは叶うのか。それが彼をたすけることになるのだろうか。


 しかし聡也は『雑音』の体を操ることができない。聡也にできるのは見ることだけだ。


 もどかしく思いながらも聡也は「来い」と琉斗に促され、彼の後について歩いた。


 琉斗の外套が彼の歩みに合わせてひらひらと泳いでる。裾には焦げ跡。火事の炎が作る陰影は濃く、最初は見逃していたけれど、焦げ跡がある、と認識できてからはくっきりと見えるようになっていた。


 琉斗が厩舎に火をつけて『雑音』を殺そうとしたが、『雑音』がいつもと寝る位置を変えていたため、焼かれることなく逃げることができたのだと、聡也は思っていたけれど……。

 火を放っただけで、あれほど外套が焦げるものだろうか?


 よく見ると裾だけでなく、腕や下衣にも燃えた跡があって……。

 聡也はハッと目をこらした。

 琉斗のてのひらが、赤い気がする。暗い上に陰になってよく見えないけれど、あれは……やけど、だろうか。


 精霊の欠片たちが光の玉となって足元に群がっている。

 うたって、うたって、と口々にねだってくる。

 『雑音』が息を吸い込んだ。

 気配を察した琉斗が振り向きざまにこぶしを繰り出してきて、『雑音』は地面に転がった。

 なんど経験していても殴られるとやはり痛い。口の中が切れて血が出ている。


「いまなにをしようとした!」


 琉斗が厳しい怒声を聞かせた。

 やめとけばいいのに『雑音』がまた唇を動かして、歌おうとする。

 再び殴られて、顎がガクガクと揺れた。


「けがらわしい口を開くなと、俺になんど言わせる!」


 今度は琉斗の足が動いて、脇腹を蹴られた。


「おまえは二度と声を発することを禁じる。わかったか、『雑音』」


 冷えた声で、琉斗が命じてきた。

 彼の眼差しも態度も、冷ややかなものだった。木登りをして無邪気に笑っていた琉斗とは別人だ。そう思うのに。


 聡也はこのときなぜ『雑音』が歌おうとしたのか、その理由がわかってしまった。  


 殴られると、知っていたのに。

 なぜ歌を歌おうとしたのか。


(琉斗の手のやけどを、治してあげようとしたんだ……)


 聡也はかなしくなりながら、そっと目を閉じた。










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