琉斗のてのひらのやけどは大丈夫だろうか、と石造りの塔の一室に閉じ込められた聡也は、そのことが気になっていた。
琉斗は三日ごとに顔を見せるけれど、中にまで入ってくることはないから、聡也は琉斗の怪我の具合を確認できないままだ。
『雑音』もたぶんそれを気にしているから、彼の視線は扉の向こうの琉斗の手元を見ようと動いているようにも感じられた。
幽閉されてから『繰り返し』に変化もないままに、ひと月以上が経過した。そろそろ散髪の日がやってくる。
しかしその前に、琉斗が部屋へ入ってくる日があったはずだ。聡也はその日が来るのを待った。
いつものように風呂の後に、扉の隙間からこちらの様子を窺ってくる琉斗を、『雑音』が手招いて中へ入ってくるよう誘う。
琉斗はしずかな動作で歩み寄ってきて、冷たい目でベッドに座る『雑音』見下ろした。
聡也は琉斗のてのひらが気になって、傷はないのかとそればかりを探そうとしていた。
しかしふと、同じだけの熱心さで『雑音』の腕を確認する琉斗の視線に気づいた。
「裾を持ち上げろ」
命令されて、『雑音』が貫頭衣の裾を太ももまで手繰り寄せ、応じる。
入浴後、新たに袖を通した衣類に武器などを仕込んでいないのかを確認されているのだと、聡也は思っていた。
けれどひたと据えられている琉斗の視線は、服の隙間というよりはむしろ、『雑音』の肌を観察しているようで……。
まるで琉斗のてのひらを見ようとしていた自分のようだ、と聡也は感じた。
そのとき、聡也の内側にふっとよみがえってくる記憶があった。
何週目の『繰り返し』のときだったろうか。
聡也は痣だらけの『雑音』の体を見てびっくりしたことがある。
風呂の時間のとき、大きなたらいに湯を運んでくる三人の使用人の男たちに代わる代わる殴られ、蹴られるのはいつも腹部か背中で。
服から見えやすい手足に傷はなく、きれいだったから。
服を脱いで初めて見える派手な色の痣に、我がことながら驚いてしまったのだ。
そして微かな疑問を抱いた。
思い浮かんだ途端に消えてしまった、ささやかかな疑問。
それをいま、思い出した。
使用人の男たちは敢えて、暴力を腹や背に集中させていたのではないか? 『雑音』が怪我をしても、
敢えて服で隠れる位置を選んで、こぶしや足を繰り出したのではないだろうか。
では、彼らは
魔女を庇う者なんて、ここには存在していないのに……。
「なにもないか?」
と、琉斗が『雑音』の手足に視線を注ぎながら問いかけてきた。相変わらずの冷たい声音だった。
なにも隠し持ったりしていない、と以前までの聡也は内心でそう答えていた。
けれど、いまは、己の抱いた疑問とともに、まさかという気持ちがあった。
まさか使用人たちは、自分たちが『雑音』に暴行を働いたことを、琉斗に見つかりたくなかったのだろうか。
いや、それはおかしい。琉斗自身だって、平気で『雑音』を殴ったり蹴ったりしてきた。聡也もその痛みを味わっている。
けれど、琉斗の「なにもないか?」が。
いまの聡也には、「どこか怪我はないか?」に聞こえてしまった。
そんなはずはない。
そんなはずはないのに……。
『雑音』が、琉斗の手首を掴んで、自分の方へと引き寄せた。
彼のてのひら。聡也はそこを食い入るように見つめた。
自分のそれよりも大きな手に、怪我はなかった。けれど火ぶくれの痕だろうか、皮がめくれたような箇所がある。前は見落としていたほどの、怪我とは呼べない程度のものだ。琉斗は確かにやけどを負ったが、その傷はもう癒えたということだろうか。
癒えたから、今日はこうして部屋の中まで入ってきたのだろうか?
聡也の中で琉斗に対する疑問が膨らんでゆく。
話しかけたい。話してみたい。琉斗と。
しかし肉体は聡也の思い通りには動かない。
『雑音』が琉斗のてのひらに、『だいじょうぶ』と文字を書いた。
彼がいま服を脱げば、まったく大丈夫ではないことが琉斗にもわかるだろう。今日も腹を
でも『雑音』はそうはせずに、『だいじょうぶ』と琉斗へ伝える。
さっきもそうだ。裾をまくれと言われて、痣が見えないように気を付けて太ももまでまくりあげていた。
琉斗の目から、己に架せられる暴行を隠すように。
『雑音』の指がもう一度動き、今度は『だいじょうぶ?』と綴った。
琉斗と視線が合った。
琉斗の顔が一瞬歪んだ。痛みをこらえるように、眉間にしわが寄る。
聡也はそこに、子どもの頃の琉斗の面影を見た。
昔はくるくるとよく表情を変えていた琉斗。『雑音』を「魔女め」と罵って以降は、こころと一緒に、表情も凍っていたのに。
ほんの一瞬、泣きそうに歪んだ琉斗の顔が、聡也の胸に突き刺さった。
しかし琉斗はすぐに冷たい目に戻り、
「それを俺に聞いてどうする」
と『雑音』の手を振り払う。
『大丈夫?』だなんて、『雑音』はなにを聞きたかったのだろう、と聡也は首を傾げた。
『雑音』と自分が同じ存在であるのなら、もっとスムーズに感情も流れてくればいいのに。
そうすればもっと……琉斗をたすけるための方法がわかるかもしれないのに。
歯がゆい思いを抱えながら、聡也は琉斗を目で追った。
『雑音』がなにか言おうと唇を動かした。しかしすぐに琉斗のてのひらで塞がれた。
「しゃべるな。しゃべらないでくれ。あと少しだから」
琉斗の低い囁き。
なにが、
それがわかれば琉斗をたすけられるのだろうか。
もう少し話していたい、と聡也は願ったが、琉斗にドンと肩を突き飛ばされて『雑音』はベッドに尻もちをついた。
琉斗はその隙に部屋から出て行ってしまった。
聡也はいまのやりとりを、頭の中で整理した。
使用人の男たちは『雑音』に暴力を振るっていることを、伯爵である琉斗には秘密にしていたいのだと、仮定して。
先ほどの琉斗が、『雑音』の体に怪我はないか確かめていたと、仮定して。
琉斗の訪問が三日ごとで、毎回必ず風呂の時間の後に『雑音』を見に来ていたのだとすると……。
琉斗は使用人たちが『雑音』にひどい扱いをしているのではないかと疑い、『雑音』が暴力を振るわれていないかを、確認しにきていた、ということに、なるのだろうか……。
『雑音』を見張りに来ていたのではなく。
見まもりに来ていたということに、なるのだろうか……。
まさかそんなはずがない。
自分に都合の良いように考えすぎだ。
聡也は首を振って己の思考を否定したが、振り払えなかった疑念は心臓の奥に根を張って、頑として存在を主張するように居座り続けていた。