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雑音 6-1


 ずっと不思議に思っていた。

 なぜ、『繰り返し』はいつもこの場面からなのだろう、と。


 『祝福』卿の下で暮らしていたときではなく、『木洩れ日』卿に保護されたときでもなく、琉斗と一緒に遊び回っていたころでもなく。

 なぜ、この火事の夜からだったのだろう。


 人生をやり直したいと願うなら、過去を変えたいと願うなら、他にもっと、それにふさわしい分岐点があったはずなのに。

 『繰り返し』はいつも、この火事の夜からだった。


 その答えを、聡也はきっともう、知っている。



 胸苦しい思いで、聡也は目を覚ました。火の爆ぜる音が聞こえていた。

 伯爵の琉斗が、こちらを見下ろしている。彼の背後では厩舎が燃えていた。

 聡也はすぐさま、彼の手を見た。琉斗の手は赤く爛れたようになっていた。やけどを負ったのだ。


 『雑音』は草むらに横たわったまま、視線を琉斗の顔へと向けた。

 緑色の瞳が、身じろぎをした『雑音』を見て、ほんの一瞬、泣き出しそうに歪んだ。


 これだ、と聡也は思った。

 『雑音』はこの日、琉斗のこの目を見たのだ。


 『赤の病』で両親を喪い、「魔女め」と『雑音』を罵って以降、冷たく凍えたままだった琉斗の瞳。

 『雑音』を殴ったときも、『雑音』の本当の名を奪い『雑音』と呼びだしたときも、馬小屋へ追いやったときも、ぜったいに揺るがなかった目が。

 このときだけ。

 このときだけ、胸の奥に封じ込めていた感情を覗かせたのだった。


 だからこの夜だったのだ、と聡也は琉斗のビー玉のようにきれいな目を見つめながら思う。


 『雑音』はずっと苦しんでいた。

 あのやさしかった琉斗が。おまえの味方だ、おれがおまえをまもってやる、と言ってくれた琉斗が、急に態度を変えてしまったから。

 殴られるたびに、罵られるたびに、『雑音』と呼ばれるたびに、傷ついていた。

 苦しかった。泣きたかった。

 昔の、屈託なく笑ってくれる琉斗に戻ってほしかった。昔の彼に……会いたかった。

 けれど、凍えた目をした伯爵が、別人だとも思えなかった。琉斗のすべてが変わってしまったわけではないと、信じていた。


 そして『雑音』はようやく見つけたのだ。

 彼の瞳の中に、彼自身の感情が浮かぶのを。


 この夜が、『雑音』にとっても転機の瞬間だったのだ。

 だから聡也はなんども導かれた。

 この、火事の夜に。



 『雑音』の唇が動いた。琉斗の名前を呼んだのだとわかった。

 声は出なかった。

 喋るな、と五年に渡って言われて続けていたから、それが身に沁みついていた……というわけではなく、火事の煙を吸い込んだせいで声が出なかっただけだ。


「……喋るな。意識があるなら、それでいい」


 低く、琉斗が呟いた。

 『雑音』が燃える厩舎と琉斗へ交互に視線を向けると、琉斗がひそやかな仕草で頷いた。


「俺が火をつけた」


 彼はきっぱりとそう言った。

 聡也に驚きはなかった。やっぱり、と思っただけだった。

 以前の聡也なら、『雑音』を殺そうとしたからだと考えただろう。けれど、あの『繰り返し』で血を吐くような琉斗の想いを知った聡也には、彼の行動の裏側がよく見えた。


 琉斗は、たしかに『雑音』の寝泊まりしている厩舎に火を放った。

 しかしその前に、『雑音』の寝床の干し草を濡らしたのも、琉斗だった。

 『雑音』が火事に巻き込まれないように。火に気づいてすぐに避難できるように、寝場所を変えさせた。


 琉斗は火を放った後、『雑音』が厩舎から逃げてくる姿を確認しようと、近くに隠れて待っていたのだろう。

 しかし馬は出てくるが、『雑音』の姿はない。不安になった琉斗は火の中へ飛び込んで行った。そして倒れている『雑音』を見つけた。

 『雑音』は馬を逃がすことを優先して、自身が煙に巻かれ、意識を失っていた。

 それを琉斗がたすけてくれた。

 彼のてのひらの火傷や、服の焦げ跡はそのときにできたのだ。 


「……おまえが中々目を覚まさないから……死んでしまったかと思った」


 ぽつり、と琉斗が言葉をこぼした。安堵のあまり思わず、意図せずに漏れたような話し方だった。

 握ったこぶしが震えていた。

 本当は『雑音』の傍らに膝をつき、介抱がしたい。しかしそんな場面を領民に見られるわけにはいかない。だから必死にこらえて、せめて火事の熱風が『雑音』に吹き込まないよう己の体を隔たりとして、そこに立っているのだろう。


 『雑音』が身を起こそうとした。

 琉斗がしずかに首を振り、

「そのままで聞け」

 と囁いた。


「ここしばらく長雨が続いたのは知ってるだろう。そのせいで領の東で土砂崩れが起きた。雨で作物がダメになり、その上で起きた事故だ。魔女のせいだとまた騒ぎになる。そうなる前に火をつけた。誰かが魔女を制裁しようとした、という事実があれば民たちの怒りも少しは和らぐはずだ」


 そんなことをしてもその場しのぎにしかならない。

 なにかある度に民の不満は募り、魔女を殺せと迫られる。……これまでが、そうだったように。

 『木洩れ日』卿が領主となった年齢に自分が負いつくまでは、という琉斗の逃げ口上も、もはや限界だろう。

 現に彼は二十二歳。あと一年しか猶予は残されていない。


「時間が稼げればいい」


 聡也のこころを読んだかのように、琉斗が言った。


「取り敢えずおまえを一旦北の塔へ隠す。亡命の準備があと少しで整う。それが終われば魔女狩りを呼ぶ。処刑の前に形ばかりの裁判がある。領地での裁判は領主の屋敷が使われるのが通例だ。おまえは地下室へ幽閉される。そこでおまえを逃がす。隠し通路はもう掘ってある」


 信じられないことを告げられ、『雑音』は首を横に動かした。

 そんなことをしたら、琉斗自身が……。


「俺も一緒に行く。昔、約束しただろう。おまえのことは俺がまもってやるって」


 琉斗が、愁眉を解いて笑った。

 五年ぶりに見る、笑顔だった。

 子どもの頃と同じ笑い方だった。


 しかしその笑顔はすぐに立ち消えた。

 琉斗は耳ざとく、使用人たちが近づいてくる気配を感じ取り、元の、凍えた表情に戻った。


「動くな」


 冷たい声で琉斗が言った。

 『雑音』は身を起こして口を開こうとした。いまの琉斗の話に、一番知りたいことが入っていなかった。

 『雑音』のことは、琉斗がまもってくれると言うが。

 琉斗自身の身の安全は、どう担保されているのか。

 魔女を逃がすなんてそんな危険なことが、見逃されるはずがなかった。


 しかし、琉斗の平手が飛んできて、バシっと頬を叩かれた。


「口を開くな」


 平坦な声。感情のない瞳。

 それでもそれらすべては、『雑音』をまもるためのものだった。

 その証拠に、すぐに使用人たちが駆け付けてきて、対峙する琉斗と『雑音』に交互に目を向けてくる。


「伯爵、ご無事ですか!」

「伯爵、この火事はなにごとです」

「伯爵、どうなさいましたか!」


 琉斗は汚らわしげな一瞥を『雑音』に向けた後、

「厩舎に火をつけられた。消火作業にあたれ」

 と、彼らへ命令を下した。


 『雑音』はふらつく体で立ち上がった。

 火の精霊のかけらたちがキラキラと光りながら宙を舞っている。


「伯爵、火事がこいつのせいっていうのはまさか」

「違う。これを殺そうとした誰かが、火をつけたんだ。恐らく先日の崖の崩落で家族を亡くした者の仕業だろう」

「…………本当ですか?」

「俺がこれを庇っているとでも?」

「いや、そういうわけでは」

「貴様は俺の両親がこれのおぞましい呪いで殺されたことを知っているだろう。俺が復讐のためにこれを生かしていることも」

「も、もちろんです」

「こいつが火をつけた犯人ならば、俺がこの手で首を撥ねている。魔法の気配はなかった。この火事は人為的なものだ。わかったらさっさと消火を手伝え」

「は、はいっ!」


 繰り返し耳にしたやりとりを、聡也は噛み締めるようにして聞いた。

 琉斗の言葉の裏側が痛いほどに伝わってきて、聡也の呼吸を苦しくさせた。


 琉斗のきれいな金髪が月光と炎にきらめく様を見つめながら、聡也は、『雑音』をまもるためにひとり闘ってきた琉斗のこの五年を思って、泣いた。











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