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雑音 6-2


 石造りの塔の一室で、琉斗が『雑音』の髪を切っている。

 シャキン、シャキン、とハサミが鳴る。

 しずかな時間だった。

 『雑音』が振り返ろうとすると、

 「動くな。刃が変な場所に当たるぞ」

 と、琉斗が言った。


「髪が伸びると顔が隠れる。顔が見えないと、不要な邪推を煽る」


 そういう建前で、いまこの時間があるのだと、聡也は理解した。

 琉斗の動かすハサミが、たまに躊躇ちゅうちょするように止まる。

 本当は『雑音』の髪など切りたくないのだ。

 琉斗は昔から自由に振る舞う子だったし、屋敷の敷地から出ることのできない、隠れてしか生活することのできない『雑音』の不自由さを、嘆いてくれていたから。

 髪型ひとつすら思うままにできないいまの『雑音』に、胸を痛めているのがわかった。


 大丈夫だよ、と聡也は語りかける。

 大丈夫。髪を切られるぐらい、なんてことない。

 だからもうこれ以上、琉斗も傷つかないでほしかった。

 『雑音』もきっと、聡也と同じことを願っている。大丈夫だよ、と言いたがっている。

 けれど『雑音』は喋らない。数日前の琉斗とのやりとりを覚えているからだ。


 三日の一度の風呂で、いつものように使用人たちに暴行を受けたあと、顔を見せた琉斗を手招いた、あの日。

 部屋へ入ってきた琉斗は、『雑音』の体に傷がないかを確認した。


「裾を持ち上げろ」


 そう促され、『雑音』は巧みに琉斗の目から痣を隠しながら、きれいな部分を見せた。


 使用人たちは、恐らく、琉斗への疑いを持っている。

 領主である伯爵が魔女と結託しているのでは、という疑念があるから、琉斗に見つからない場所を狙って、暴行を加えてくるのだ。

 それを琉斗も理解している。

 だから彼は使用人たちを強く抑えることができない。表立って『雑音』を庇うことは、却って『雑音』の立場を危うくすることだと知っているから、せいぜいがこうして、怪我がないか確認するだけなのだ。


「なにもないか?」

 と、問われて、『雑音』は琉斗の手を引き寄せた。

 やけどの痕の残る彼のてのひらに、『雑音』が指をすべらせ『だいじょうぶ』と綴る。


 自分は大丈夫。

 それよりも。


 『だいじょうぶ?』


 琉斗の方は、大丈夫なのだろうか?

 『雑音』をたすけるために、ひとりで無茶をしていないだろうか。

 領民とはうまくやっているだろうか。

 王さまの不興を買うことはしていないだろうか。


 『だいじょうぶ?』の言葉にそれらすべてを込めて、琉斗を見つめると、琉斗の表情が一瞬くしゃりと歪んだ。

 火事の夜に、凍り付かせていた感情がすこし溶けてしまってから、気持ちが揺れ動きやすくなっているのかもしれなかった。


 けれど琉斗はすぐに冷たい表情に戻って、

「それを俺に聞いてどうする」

 と言った。


 叩きつけるような声音は、『雑音』の追求を逃れるための虚勢にも思えた。

 『雑音』が離れようとする琉斗に追いすがる。

 手を伸ばし、彼の名前を呼ぼうと、唇を動かしたとき。


 琉斗のてのひらが、『雑音』の唇を塞いだ。


「しゃべるな。しゃべらないでくれ。あと少しだから」


 あと少し。

 あと少しでおまえを逃がしてやれるから?

 あと少しで自由に話せるようになるから?

 だからなにもせずにおとなしくしておけということだろうか。

 琉斗ひとりに、すべてを背負わせて。

 『雑音』はここで、おとなしく待っていろと……。


 『雑音』が首を振った。否定の形に動かした。

 琉斗に危険が及ぶのなら、もうなにもしないでほしかった。


 琉斗が『雑音』の体を突き放した。

 眉間には苦しげなしわが寄っている。

 『雑音』がベッドに尻もちをついた。琉斗が背を向けて、部屋を出て行った。


 なにをどう話しても、二人の意見はきっと平行線だ。

 琉斗は『雑音』を逃がしたい。『木洩れ日』領から。……この国から。亡命させようとして、きっと、相当な無茶をしている。


 『雑音』は琉斗の安全をなによりも優先したい。危ないことはさせたくない。自分が傷つくのはいい。『雑音』は魔女だから。石を投げられることには慣れている。でも琉斗がそんな目に遭うのは嫌だった。


 互いの意見が交わらないことは、きっと当の二人が誰よりもわかっている。

 だから散髪の間も、会話はほとんど生まれない。

 それでもハサミの音だけが響く空間は、しずかで、穏やかで。

 聡也は、永遠にこのときが続けばいいのにと、思わずにはいられなかった。



 しかし時間は流れる。その流れを止めることはない。

 『雑音』は塔から出されるし、琉斗は『雑音』を庇って斧で斬られる。


 『雑音』はわかっていた。

 失血で瀕死となった琉斗をたすけるという己の行為が、『雑音』を逃がすという琉斗の計画を壊してしまうことは、わかっていた。

 けれど見殺しになんてできなかった。


 自分こそが死にかけているのに、『雑音』に、「にげろ」と言ってくれた琉斗だから。

 生きていてほしいと、思って、歌った。


 そして『雑音』は死ぬほど後悔した。

 だって、まさか琉斗が火炙りになるなんて思わなかったから。

 いざとなったら自分のいのちをまもる行動をとってくれると思ってたから。


 結末を知っていたら、きっと、歌ったりはしなかった。

 火炙りよりも斧で切られた失血死の方が、苦痛は少なかっただろうから。


 けれど、魔法は使えても未来を視る力などない雑音は、琉斗の傷を治すために歌ってしまった。


 傷の癒えた琉斗は、絶望したような顔で『雑音』を見ていた。

 ごめんなさいと謝りたかった。しかしすぐに目隠しと猿轡をされたから、それは叶わなかった。



 『雑音』は断頭台に上げられた。

 猿轡を嵌められたまま、手と首を固定されている。


 目隠しが外された。『雑音』はすぐに琉斗を探した。

 琉斗が磔になっている。足元に火が放たれた。

 逃げて逃げて逃げて。

 猿轡の口で何度も叫び、泣きながら悲鳴を漏らした。

 首を斬られる恐怖より、剣を骨で受け止める痛みより、琉斗が早く改心の言葉を述べて火炙りから解放されることを強く強く願った。


 琉斗になら首を斬られてもいい。殺されてもいい。

 だから早く、魔女への憎悪を、王への忠誠を口にしてほしかった。


 けれど琉斗は。 


「おまえたちが魔女とする、その者がしたことはなんだっ! なにをしたっ! 俺のいのちの救っただけだ! 三度も! 三度も救ったんだ! それのなにが害悪だ!」


 足を炎に舐められながら、己の命乞いではなく、『雑音』の潔白を訴えた。

 彼の言葉に『雑音』は涙を落とした。

 嬉しいのか苦しいのかわからない。

 ただ、この五年ひたすらに隠されていた琉斗の想いの奔流が『雑音』へと流れ込んできて、それが涙となって溢れたのだった。


 琉斗を焼く炎の勢いは弱まらない。

 口を塞がれている『雑音』は魔法が使えずに、彼を救い出すことができない。


 互いのいのちは、もはや幾ばくもなかった。

 それを悟ったのか、琉斗が緑の瞳をひたと『雑音』へ向け、群衆の怒号に負けない声で叫んだ。


「すまない、すまない! 俺はおまえをまもれなかった!! おまえから名を奪い、話すことを奪い、歌うことを奪った! 奪うだけでまもることができなかった!」


 『雑音』は首をわずかに横へと振った。『雑音』の動きに合わせて、首の後ろの傷から血がとぷとぷと溢れた。


 失血で視界が暗い。でも耳はしっかりと聞こえている。

 炎が琉斗の足でパチパチと爆ぜる音すら、聞こえていた。

 熱いだろうに、痛いだろうに、苦しいだろうに、琉斗はひたいに汗するだけで、苦悶の声を上げずに。

 代わりのように、『雑音』への言葉を紡いだ。


「今度は! 今度こそっ! 次に生まれ変わったら、必ず、必ずおまえをしあわせにする! 自由に歌えるようにする! おまえが魔女でも、どんな姿でも、ぜったいにおまえをしあわせにする! 誰もおまえを傷つけない、やさしい世界をおまえにあげるからっ!」


 琉斗が両目から滂沱の涙をこぼしながら、凛と叫んだ。


「ぜったいに、ぜったいにあげるから! おまえに、やさしい世界をあげるから!」


 『雑音』の目は、もう見えていなかった。それでも瞼は閉じずに、眼球は琉斗の方へと向けられていた。

 聴覚もどんどんと遠のいていくのがわかった。 


 『雑音』が最後に聞いたのは、琉斗が自分を呼ぶ声だった。


 改心どころか魔女への傾倒を明らかにした領主に、群衆からは怒号が飛んでいた。

 激しく飛び交う怒りの言葉に半ば飲み込まれながらも、琉斗の声は『雑音』へと届いていた。


「愛してる! ソーヤ! 愛してるっ!」


 ソーヤ。


 そうだ。

 『雑音』の本当の名前は、『魂の音』。

 この世界の発音では、ソーヤとなる。


 ソーヤ。

 ……僕の名前と一緒の音だ、と聡也は思った。


 『ソーヤ』の音を濁らせれば、『雑音ゾーヤ』になる。

 『雑音』への冷遇を周囲に知らしめるために、琉斗が最初に呼び出したのだ。

「貴様など、『雑音』で充分だ」

 と言って。


 己の本当の名前を思い出すと同時に、聡也は、伯爵の名前も思い出した。


 彼は、『共鳴』。そうだ、『共鳴』だ。


 『木漏れ日』卿が言っていた。

 『雑音』と琉斗、二人を抱き寄せて。

 きみたちは仲良くしなさい、と。


「『魂の音』が『共鳴』したなら、もっともっときれいに響くよ。きみたちが自由に肩を寄せ合って、仲良く暮らせる世界をつくっていかなければね」



 聡也は泣きながら、『木漏れ日』卿の言葉を噛み締めた。



 気づけばなにもない空間に、聡也は立っていた。

 目の前には『雑音』……『魂の音ソーヤ』が居る。

 彼の手が伸びてきて、聡也は『魂の音』に抱きしめられた。


「これをきみに見てほしかった……」


 すすり泣くような声音で、『魂の音』が言った。


「きみに、気づいてほしかった。僕が教えるのではなくて、きみ自身が気づかなければ意味がないから」

「…………リュートは、どうなったの?」

「『共鳴』は死んだよ。あのまま、火に焼かれて」


 誰もたすけてくれなかった。『共鳴』も、『魂の音』も。あのまま死んでしまったのか。

 聡也がぼたぼたと涙をこぼすと、『魂の音』がしずかに首を振った。


「まだ終わりじゃない。きみは、彼をたすけなければ」

「え?」

「きみにしかできないことだよ。お願い、彼をたすけて」


 『魂の音』の茶色い瞳が聡也の顔を映している。

 間近でそれを見つめて、聡也はその目の中へと引き込まれるような錯覚を覚えた。

 否、錯覚ではない。引っ張られている。

 体が。意識が。  

 ……元の世界へ、引き寄せられようとしている。



「彼はまだ苦しんでる。僕を……僕たちをたすけようと苦しんでる。お願い、きみが彼を救って。彼を、しあわせにしてあげて……!」



 『魂の音』の声が、聡也の中を突き抜けた。

 その瞬間、聡也は目が眩むような真っ白の光に飲み込まれた……。










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