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琉斗 1-1


 ベッドサイドに取り付けられたモニターに、規則正しい波形が流れてゆく。


 心電図、脈拍のリズム、心拍数、酸素飽和度、呼吸数……。

 波形や数値は安定している。


 琉斗はその画面を見るともなく見ていた。


 虚脱は深く大きく、なにをする気にもならない。

 ただ、毎日こうして病院を訪れ、彼の手を握って過ごすだけだ。


 ベッドの上の、聡也の手を。



 草壁聡也はこの世のすべてを拒絶するように、から眠ったままだった……。



 なぜこうなったのだろう、と琉斗は両手で聡也のやわらかな手を包み、深く項垂れた。

 あれからずっと、後悔ばかりをしている。

 あの日、もっとちゃんと聡也と話し合ってれば、聡也は川に飛び込んだりしなかったに違いない。


(なんできみが! よりによってきみが! 僕の計画の邪魔をするんだっ!)


 そう言って、一方的に聡也を責めたあの日の夜、ようやく落ち着きを取り戻した琉斗は、家に聡也の姿がないことに遅ればせながら気づいた。

 リビングのテーブルの上には、なぜかお金の入った巾着袋が置かれていた。

 聡也のものだ。なぜ、これを置いて行ったのかはわからない。それでも薄汚れた古い巾着からは、別れの気配が強く漂っていた。


 琉斗は慌てて外へ飛び出した。

 夜の闇と外灯のぼんやりとした光の中、真っ先に足を向けたのはあの河川敷だ。初めて橋の下で聡也の歌声を聴いたとき、全身が震えた。『彼』の声だと、そう思った。

 その、彼と出会った大切な場所へ向かう途中、川沿いを走っていると橋から少し離れた場所に、赤色灯を明滅させた救急車両が停まっているのが見えた。野次馬の姿もある。

 琉斗の心臓が嫌な予感にゴトゴトと鳴りだした。


 土手を下り河川敷を疾走した琉斗は、担架を担いだ救急隊員たちとかち合った。

 そこに寝かされている人物の顔を恐る恐る確認する。

 聡也だった。

 ずぶ濡れの聡也が、ぐったりと横たわっていた。


「聡也っ!」


 思わず飛びついた琉斗は、すぐに他の隊員に抑えられた。


「お知り合いの方ですか?」

「聡也っ! 聡也っ!」

「落ち着いて。取り敢えず一緒に来てください」


 強引に腕を引かれ、担架から引き離された。

 救急隊員たちはきびきびした動きで土手を上り、聡也をストレッチャーへ乗せるとそのまま救急車両へ運び入れた。

 琉斗も背を押され、横に同乗した。


 ひとりが聡也に覆いかぶさるようにして、彼の胸に重ねた両手を置き、そこへ体重を掛けた。

 ガチャ、ガチャ、ガチャ、ガチャ。隊員のリズミカルな動きに合わせてストレッチャーの固定具が音を立てる。


 なにをしているのだろう。あんなに胸を押されたら痛いはずだ。

 離れてくれ、と琉斗は震える手で隊員を押しのけようとした。しかしそれよりも早く右腕を掴まれ、強引に横を向かされた。


「患者さんの名前、生年月日、既往歴はわかりますか」

「……え?」

「いまから搬送先を探します。名前、生年月日、病歴を教えてください」


 問われるままに、琉斗は答えた。


 名前は、草壁聡也。

 生年月日は……いつだったろう。転居の手続きをした際に見たはずだ。思い出せない。頭が真っ白だ。しばらくパクパクと口を開閉していた琉斗だったが、なんとか、年は二十歳です、と年齢だけを絞り出した。

 既往歴は知らない。わからない。定期の薬はなかった。それだけは確かだ。


 救急隊員は琉斗の言葉を書きつけ、助手席に座る男へと渡した。

 助手席の隊員が病院へ連絡をとっている。

 早口でなにかやりとりをしているが、琉斗はそれよりも聡也の様子が気になってそちらばかりを見ていた。


「心拍再開!」

 と、誰かが叫んだ。

 その声にかぶさるようにして、

「はい、はい。川で溺れて……自殺の疑いです」

 という言葉が琉斗の耳を貫いた。


 自殺?

 聡也が?

 僕のせいで?


 激しく動揺した琉斗の目の前では、びしょ濡れで蒼白な聡也が、救急隊の懸命な処置を受けている。

 自分のせいだ、と思った。

 恐ろしいまでの罪悪感が琉斗の視界を塗りつぶしていった。



 救急車が病院へ到着する前に、聡也の呼吸が戻った。

 運が良かった、とは、医者に言われた言葉だ。


 聡也が川で流されるところを通行人がたまたま目撃し、すぐに救急車を呼んでくれたらしい。

 さらには、聡也の服がたまたま川底の岩に引っ掛かり、その場に留まり続けたことで、溺れてから救助までがこれ以上ないほど迅速であった、とのことだ。

 通報してくれた通行人が、聡也は自分で川に入って行ったと証言している、との話も聞いた。


 それを琉斗に語った医者が、「運が良かったですね、一命を取り留めて」としたり顔で幾度も頷いていた。


 運が良かった? と琉斗は笑いそうになった。

 本当に運が良かったなら、そもそも川になど飛び込んだりはしない。

 本当に運が良かったなら……ただただしあわせに暮らせたはずなのに。


 聡也は目を覚まさない。

 大きな外傷もないし、脈拍も呼吸も正常なのに、意識が戻らない。

 ずっと眠ったままの聡也の手を握りながら、琉斗は、途方に暮れていた。


 早く目を覚ましてくれ、とは祈れない。

 いま、聡也が目を覚ましても、どうすればいいかわからない。


 ずっと頑張ってきた。今度こそ、この子をしあわせにしようと決めて。そのためにずっと頑張ってきた。

 けれど琉斗のせいで、聡也は川に身を投げた。

 自殺しようと思う程に、琉斗が追い詰めてしまった。

 そんな自分が、なにをどう祈ればいいのか。


「……やさしい世界を、きみにあげるって、約束したのに……」


 握った聡也の手にひたいを押し当てて、琉斗は呻いた。

 苦しかった。

 自分がまた『彼』を傷つけたという事実が、苦しかった。


「なんだよお通夜かよ」


 不意によく響く声が降ってきて、琉斗はのろのろと顔を上げた。

 病室がパッと明るくなるような金髪が視界に入った。琥珀が来たのだ。

 細身の青年は外見の繊細さが嘘のようなガサツな態度で、配慮のない足音を立てて琉斗の隣へと歩み寄ってきた。


「……死んでない」


 琥珀のきれいな顔を睨んで答えると、琥珀が華奢な肩を竦めて琉斗の頭を叩いてきた。


「じゃあそんな暗い顔してんなって話だよ。おまえが四六時中こいつに張り付いてるから、看護師さんたち怯えてたぜ? トクシツの患者さんトコは空気が重いってな」


 トクシツ、と琥珀が言った通り、琉斗は聡也のために特別室を手配していた。

 個室で、広くておしゃれなホテルのような部屋だ。聡也が目覚めたとき、少しでも快適に過ごしてほしくて、ここに入れてもらった。

 贅沢に慣れていない聡也はきっと、起きたらビックリするだろう。目を丸くして、「リュート、ここはどこ?」と首を傾げるだろう。


 想像したら胸が苦しくなって、琉斗はまた深くうつむいた。










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