もうずっと、終わりのない迷路でもがいている。
『上條琉斗』の世界と、木漏れ日領の『共鳴』の世界。自分がいまどちらに居て、なにをしているのかがわからなくなるときがある。
目覚めてすぐに、地下通路の掘削をしようと立ち上がり、室内を見渡して初めて、そうかここは日本か、いまの自分は『上條琉斗』か、と気づくこともある。
そんな曖昧な世界の中で、唯一くっきりとあったのは、『魂の音』を救わなければならなという使命だけだった。
彼に。あのやさしい魔女に。やさしい世界をあげるのだ……。
そのために、その願いを叶えるために、聡也をしあわせにするために、『共鳴』は『上條琉斗』としてこの世に生を受けたのに……。
病室で眠り続ける聡也のまぶたは動かない。
琉斗は握った聡也の手を、ぼんやりと見つめた。
不器用な彼は爪を切るのも下手くそで、いつも深爪になっている。中指の先端はガーゼに隠れていた。川で流されたときに岩かなにかに当たったのか、爪が割れていたらしい。
沈黙した琉斗を、琥珀がそっと覗き込んでくる。
視界の端でまた彼の金髪が光った。
「頑張ったことは、免罪符にはならない」
「……リュウ?」
「結局は、僕のせいで死んでしまった……」
彼をまもると、約束したのに。
それは果たされなかった。
『魂の音』は断頭台に繋がれ、処刑された。『共鳴』のせいで。『共鳴』の傷を癒したためにもはや言い逃れも叶わず、苦しんだ末に殺されてしまった。
その場面は幾度も幾度も幾度も、夢で見た。
死刑執行人の男が剣を振り下ろすところも。
その刃が華奢なうなじに食い込むところも。
赤い血がぬらりと広がるところも。
苦痛に顔を歪めた『魂の音』の茶色の瞳が……ひたと、こちらを見つめるところも。
琉斗はぜんぶ、ぜんぶ、あますところなく見て、そしてその度に飛び起き、嘔吐した。
吐いても吐いても嘔気は治まらなかった。
全身が震えた。
なぜたすけることができなかったのだろう。
自分がもっと違う選択肢を選んでいれば、『魂の音』はこれほど凄惨な最期にならなかったかもしれないのに。
なぜ自分は、
『魂の音』の斬首刑を、見ていることしかできなかったのか……。
「僕は、一度失敗したから……こんどは絶対に間違えないようにしようと、思って……」
琉斗は眠っている聡也の顔に、視線を注いだ。
口元に酸素マスクがなければ、ただの寝顔に見えた。
「練習も、たくさんしたのに……」
琉斗の呟きはささやかで、間近にいる琥珀の耳にすら届かずに消えた。
『魂の音』と再び合うそのときのために、琉斗は、彼が自由に歌える環境を準備しようと思った。
『魂の音』が歌うことをやめている、とは微塵も考えなかった。
だって、歌を歌っているときの彼は本当にきれいで……『共鳴』には見えないはずの精霊のかけらたちが色とりどりに光っているのが、見えそうなほどだったから。
だからきっと、この世界でも歌っているだろうと思った。
『魂の音』が心置きなく歌える場所をつくるために、琉斗は、琥珀や他のひとたちを使って練習をした。
住む場所を与え、美味しい食事を与え、歌える場所を与えた。
家の地下にスタジオも作った。
ともかく彼らに居心地の良い空間を提供できるよう、琉斗は最善を尽くした。
琉斗が面倒を見た彼らはやがて、ミリオンセラーのミュージシャンとなって巣立って行った。
いつの間にか周囲は彼らのことを『龍玉』と呼ぶようになっていた。
琉斗の、掌中の珠。
それを聞くたびに琉斗は、まだだ、と思った。
まだだ。まだこんなものじゃない。
もっともっと、大切にする。
『魂の音』が見つかったら、他のなによりも誰よりも優先して、掌中の珠以上にだいじにするのだ。
河原で歌う聡也を見つけたとき、すぐに『魂の音』だとわかった。
『共鳴』の記憶がある琉斗とは違って、聡也は前世のことはすっかり忘れているようだった。
それでいい。
苦しみしかなかったあんな世界のことは、忘れた方がいい。
ここで必ず僕がきみをしあわせにしてあげる。
しかしこの世界でも聡也は虐げられていた。
本当の名前を奪われ、『ノウ』と呼ばれていた。
そしてそのことになんの疑問も抱いていなかった。
(ノウは、ノウナシの、ノウ)
彼がそう言ったとき、胸の奥が捩れた。
『魂の音』を『雑音』と呼んだ自分の過去が襲い掛かってきたかのようだった。
ノウでいいよ、と彼は言った。
琉斗は首を横に振り、
「僕は呼ばない。もう呼ばない」
と答えた。
ノウが不思議そうに瞬きをするのが、かわいそうだった。
なぜ、世界はこんなにもこの子に厳しいのだろう。
それがかなしくて悔しくて、泣きそうになった。
やさしい世界をきみにあげたい。
それだけが琉斗の願いで……そして、そのための計画を練り直す。
誰も聡也を軽んじず、誰も聡也を傷つけない、やさしい世界を。
琉斗は計画の実現のために奔走した。
聡也を取り巻くすべてのひとが、聡也を尊重するように、まずは足場が必要だ。
これまでの経験から、琉斗は知っていた。
ひとは相手の地位によって態度を変えるということを。
たとえば琥珀。
彼は路上ミュージシャンだった。ギター一本で歌うその声がどことなく『魂の音』に似ていて、琉斗は彼の面倒を見ることを決めた。
最初、音楽関係者たちは無名の琥珀に冷たかった。
しかし琥珀が売れると彼らの態度は一変した。
いまや彼は、どこへ行っても下にも置かれぬ扱いだ。琥珀の歌を、努力を認めない人間など、きっとひとりとして居ないだろう。
琉斗は聡也も彼のようになれると考えた。
聡也の歌のすばらしさを広く世間に知らしめることができれば、もう聡也を『ノウ』と呼ぶ人間は存在しないだろう。
好きな歌を、好きに歌って。
ただ、好きなことを好きなようにして。
誰からも認められるしあわせな世界。
そんなやさしい世界を、聡也に、あげたかった。
『共鳴』が果たせなかったことを、自分こそが、叶えたかった。
それなのに。
「僕はきみを傷つけるばかりで……しあわせにできないんだ」
琉斗は喉を塞ぐ気鬱を、言葉とともに吐き出した。
「いまからしてやればいいじゃん」
至極簡単なことのように、琥珀が言った。
琉斗は泣き笑いのような顔になり、首を横に振った。
方法がわからない。
彼をしあわせにする方法が。
「おまえ、疲れてんじゃねぇの?」
琥珀のてのひらが、琉斗のひたいを覆った。
「熱は……ねぇか。なぁ、もう今日は帰れよ」
「だめだよ。聡也が」
「おまえが辛気臭ぇツラ晒しててこいつが起きるならそうしろって思うけど、こいつだっていつ目ぇ覚ますかわかんねぇだろ。げっそりしたおまえ見てショックを受けるのはこいつなんだから、今日は帰って寝ろって」
肩を揺さぶられ、琉斗はほろりと苦く笑った。
言葉は乱暴だが琥珀なりに心配してくれている、そのことはよくわかっていた。
けれど。
「眠れないんだ」
しずかに、琉斗は呟いた。
眠り続ける聡也と反比例するように、琉斗は眠れなくなっていた。
寝ると必ず夢を見る。
『魂の音』が処刑される夢を。
昔のように嘔吐することこそなかったが、それでも飛び起きたときには心臓が壊れるほどに暴れて回っていて、再び眠りにつくことはできなかった。
「ああ~っ、くそっ」
琥珀が突然叫んで髪をぐしゃぐしゃに掻き回し、勢いよく立ち上がった。
「マジで辛気臭いの無理なんだって。おら、立て。帰んぞバカ」
「琥珀」
「いいから来いって。眠れないなら、オレが慰めてやるから。一発抜きゃ寝れるだろ」
「琥珀」
思いきり腕を引かれて、琉斗はたたらを踏むように立ち上がった。
握っていた聡也の手が離れる。
ぽとり、とシーツの上に落ちたてのひらはそのままの形で、彼の意思で動く様子も見せなかった。
聡也から視線を剥がせない琉斗を、琥珀が強引に引っ張った。
見た目は華奢な琥珀だが、全国ツアーを完走できるほどしっかりと鍛えているため、存外に力が強い。
琉斗は抗いきれぬままに病室の外へと連れ出され、そのまま家に強制送還されたのだった。