遠くで声が聞こえていた。
ひとりは、琉斗。
もうひとりは……コハクだろうか。
いつもは耳に心地よく響く二人の声は、けれどいまはぼそぼそと囁くように交わされていて、聡也はどうしたんだろうと思った。
琉斗の声は泣き出しそうに震えていたし、コハクはなんだか少し怒っているみたい。
どうしたんだろう。
彼らの声は小さくて、二人の会話を追いかけるべく耳を澄ませていたら、琉斗の苦しげなつぶやきが落ちてきた。
「僕はきみを傷つけるばかりで……しあわせにできないんだ」
聡也はハッとした。
おまえにやさしい世界をあげるから、と、身を焼かれながら叫んだ『共鳴』の姿が思い出され、胸が苦しくなった。
「いまからしてやればいいじゃん」
コハクがそう答えるのが聞こえた。
聡也は「だめだよ」と口を挟もうとした。
だめだよ。もう僕をしあわせにしようなんて思わなくていいんだよ。
リュートはもう、頑張らなくていいんだよ。
そう言いたかったのに、口が動かない。
目も開かないし、腕や指先すらも動かすことができずに、聡也は歯噛みした。
どうして僕の体は動かないんだろう。
焦りを覚えながら必死にもがいていると、
「おら、立て。帰んぞバカ」
コハクが琉斗を促して立ち上がる気配がした。
「コハク」
「いいから来いって。眠れないなら、オレが慰めてやるから。一発抜きゃ寝れるだろ」
「コハク」
揉めるような二人の声が少しずつ遠ざかってゆき、ドアが閉じる音がささやかに空気を揺らした。
聡也は身じろぎもできぬままにそれを聞いて、内心で嘆息する。
これからどうすればいいのだろう。
彼をたすけて、と『魂の音』は言っていた。
彼、というのはつまり琉斗のことだろう。
(彼はまだ苦しんでる)
『魂の音』の言葉を思い出し、その通りだと思った。
琉斗の声は、苦しそうだった。
かなしそうだった。
その原因が自分だと思うと、聡也は居たたまれない気分になった。
僕が、苦しめちゃったのかなぁ。
こころの中で『魂の音』へ問いかけてみるが、返事はない。
それでも『魂の音』の魂が、自分の中に溶けているという実感はあった。
だから聡也は、答えが返ってこないことはわかっていながらも、自分の中の『魂の音』と対話するように、質問をぶつけてみた。
どうしたらいいと思う?
どうすればリュートをたすけられると思う?
僕になにができると思う?
きみにしかできないことだよ、と『魂の音』は言っていたけれど、聡也は自分がどうすればいいのかわからない。
そもそも、なぜ琉斗が、
(僕はきみを傷つけるばかりで……しあわせにできないんだ)
と言ったのか、それもわからない。
だって聡也は、しあわせだったから。
琉斗に拾ってもらって、琉斗と一緒に暮らせて、あの河川敷の橋の下で琉斗のギターに合わせて歌うことができて、とてもとても楽しかったから。
たくさんのジャムももらった。きれいだね、と言うと、隣で琉斗が目を細めて、そうだね、と頷いてくれた。
琉斗がくれたものはすべて、やさしいだけの記憶だ。
だからなぜ、琉斗が聡也を傷つけたと思っているのか、それが理解できなかった。
僕が『ノウナシ』だからかな、とすこしかなしくなる。
聡也が、もっとふつうのひとのように物事を理解できる頭を持っていたならば、琉斗の気持ちもきちんとわかってあげられたのかもしれない。
聡也が『魂の音』だったとき、目にするもの、聞こえてくるものは、どれもクリアだった。ハッキリと理解できていた。あれがふつうのひとの世界なのだと思った。
けれど現実の聡也は、言葉が上手く理解できないし、考えるスピードが遅いし、文字だってちゃんと書けないのだ。
これでどうやって琉斗をたすけたらいいんだろう。
聡也は途方に暮れて、しょんぼりとしてしまう。
せめて聡也が『魂の音』のように、魔法を使えたらよかったのに。
そうすれば、楽しい気持ちになる魔法を、琉斗にかけてあげることができたのに……。
そう考えて、はたと聡也は己の思考をもう一度なぞった。
僕が、魔法を使えたら……?
聡也はそのときふと、ピュピュピュピュピュ、と楽器のような音が聞こえていることに気づいた。
鳥の声だ。
近くに木があるのだろうか。
自分がいまどこに居るかもわからずに、聡也は周りの景色を想像してみた。
さわさわと揺れる梢が見えた気がした。
風の音がしている。風が、木々を揺らしているのだ。
誰かが歩く足音も聞こえる。パタパタパタ。忙しそうな早足だった。
どこかで犬の鳴く声もしている。
サイレンが近づいてきた。ピーポーピーポーピーポー。音が一番大きく鳴ったところで、急に途絶える。
救急車が着いた、ということはここは病院なのだろうか。
そうかな、と思って改めて耳を澄ませてみたら、
「ナースコール、誰か出れる~?」
という声が聞こえてきて、聡也は笑ってしまった。
音が、たくさん溢れている。
聡也の周りは、音でいっぱいだ。
聡也は目を開いた。
先ほど琉斗たちが居たときはピクリとも動かなかったまぶたは、自然に、なんの抵抗もなく持ち上がった。
「……わかった」
いまの聡也に、できること。
それをたぶん、聡也は見つけることができた。
「わかったよ、リュート」
喉から出た声はびっくりするほどにかすれていたけれど、気分は清涼だった。
ピュピュピュ、とまた鳥の声が聞こえて、聡也は顔を窓の方へと向けた。
鳥の姿は見えなかったけれど、青空に緑の葉っぱが揺れていて、とてもきれいだった。