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目覚め 1-2


 琉斗が病室に飛び込んできたのは、夕暮れの光がオレンジ色に空気を染める頃合いになってからだった。

 聡也が目覚めてから四時間が経過していた。


 覚醒してからも聡也は寝ころんだままの姿勢でぼうっとしていたから、聡也が起きたことにしばらくは誰も気づかなかった。

 居室担当の看護師が定時の訪室の際、ベッドサイドまで歩み寄ってきた段で聡也の双眸が開いていることに気づき、そこからは急に周囲が慌ただしくなった。

 報告を受けた医師が駆け付けて、嵐のようにひと通りの検査を受けさせられた。あまりに忙しくて目が回ってしまいそうだ。

 息を切らせた琉斗が足音も荒く姿を現したのは、たくさんの検査が終わってようやくひと心地ついた、そんなタイミングだった。


「……聡也」


 琉斗はベッドに腰を掛けている聡也を見て、目を真ん丸に見開き、入り口で固まった。

 琉斗があんまり驚くから、聡也もつられて目を丸くする。

 二人が無言で見つめ合ってると、

「おい、さっさと入れって」

 と、ぶっきらぼうな口調が聞こえた。

 コハクの声だ、と思うと同時に、琉斗を押しのけて金色の頭が見えた。


 あ、と聡也は急に懐かしい気持ちに襲われた。

 金色は、『共鳴』の色だ。

 彼の髪もこんなふうに、キラキラと光を弾いていた。


「うわっ。マジで目ぇ覚ましてんじゃん! おい寝坊助ねぼすけ、大丈夫かよ」


 パタパタと軽い足音とともにコハクが小走りで近寄ってきて、聡也の顔を覗き込んでくる。

 アーモンド形のきれいな目が聡也を映して、弾けるように笑った。


「おまえふざけんなよっ。くそっ」


 表情とは裏腹のセリフを吐いたコハクが、聡也に抱き着いてきた。


「わっ」


 コハクの体重を受けとめきれずに、聡也は背上げしていたベッドに深くもたれる形となった。

 コハクはマットレスに片足を乗り上げ、華奢な体を押し付けるようにして聡也をハグしてきた。彼の背に流れる金髪がやはりきれいで、聡也はそれをそっと撫でた。

 コハクからはなんだかお風呂に入りたてのような、いい匂いがしていた。


「コハク……重いよ」


 抱き着かれるのは嫌じゃないけど、胸が圧迫されるようで苦しい。

 呼吸は正常にできているからと、検査の段階で酸素マスクは外れていたから、息苦しいのは百パーセント、コハクのせいだ。


「わざと重くしてんだよバカ野郎。心配かけやがって!」


 乱暴な言葉で詰ったコハクが、聡也の両肩を掴んでガクガクと揺さぶってきたが、その動きはすぐにピタリと止まった。

 琉斗の腕が、聡也からコハクを引きはがしたのだ。


「聡也…………大丈夫?」


 コハクのように聡也に触れてくることはせずに、琉斗が、こちらを見下ろしてそっと問いかけてくる。

 彼の眉は苦しげに寄せられており、眉間に刻まれた縦のしわを見つめながら、聡也はこくんと頷いた。


 体はもう大丈夫だ。

 検査結果はまだ聞いていないけれど、どこも悪くないと思う。

 聡也は元気だ。

 それなのに。

 琉斗の顔は、暗く沈んだままで。

 彼のその表情と、『共鳴』の顔が重なって見えた。


 斧で斬られ絶命しそうになった『共鳴』を、『魂の音』が癒したときと同じような、絶望が深く根を張った目を、琉斗はしていた。


 なんと声をかけてあげればいいのだろう。

 聡也はそれがわからずに、下唇を噛んだ。


「おいおい、なんだよなにシリアスな空気出してんだよ。こいつが起きんのずっと待ってたんだろ。喜べよ、ほらっ」


 コハクが琉斗の背をドンっと押した。

 琉斗の右足が前に出た。ふらりと傾いだ上体が、聡也の方へと近づいた。


 聡也は咄嗟に琉斗を支えようと、両手を差し出した。

 その手が、琉斗に触れる前に。

 琉斗が近づいた分以上の距離を、飛び退すさって離れた。


 聡也の手が宙ぶらりんのままで、止まる。

 開いた空間は、どちらからも埋められないままに、そこにぽかりと存在していた。


「……リュウ?」


 訝しげな声で、コハクが琉斗の名を呼んだ。

 琉斗の顔がくしゃりと歪んで、彼は脱力したように膝を折った。


「僕は……」


 肩で息を吐いて。琉斗が震える手で顔を覆った。


「僕は、きみに、合わせる顔がない」


 その背が徐々に丸まり、病室の床でうずくまるようにして小さくなった琉斗を、聡也はベッドの上から見下ろした。


「お、おい、リュウ」


 困惑しきった視線を、聡也と琉斗へ交互に注いで、コハクが琉斗を抱き起そうとする。

 しかし琉斗は土下座にも似た姿勢を崩さずに、涙声で、

「ごめん」

 と言った。


「聡也……そうや、ごめん、ごめん」


 ごめんなさい、と繰り返す琉斗の背が、かわいそうなほどに震えている。

 それを見ていた聡也の体も、震えだした。


 コハクが困り果てた顔を聡也へ向けて、なにか言ってやれ、と目配せしてくる。

 聡也もなにかを言ってあげたくて口を開いたけれど、呼吸すらも上手くできずに、喉が熱くなった。


 聡也はきゅっと唇を引き結んだ。

 いま、聡也がなにを言ったとしても、琉斗のこころに届くとは思えなかった。


 黙したまま首を横へ振った聡也を、コハクが驚いたように見つめていた。


 誰も動けない。そんな空気を破ったのはノックの音だった。


「失礼します。先生が検査結果の説明をしたいと……」

 ドアを開いた看護師が、あっ、と口を押えた。

 ベッドに座る聡也と、土下座の姿勢で体を丸めている琉斗、そして琉斗の背を抱いているコハクの姿にただならぬ気配を察して、

「失礼しました。また後程お声掛けに参りますね」

 と言って早々に退室しようとする。


「いえ……」


 小さく鼻を啜った琉斗が、緩慢な動作で体を起こし、腕で目元を拭ってから立ち上がった。


「いまから行きます」

「は、はい、ではこちらに」

「……聡也、僕が聞いてきて、構わないかな?」


 不意に琉斗の赤い目がこちらを向いたから、聡也は反射的に背筋を緊張させて、こくりと頷いた。

 琉斗の眉はかなしげに寄せられたままで、眉間にはしわがくっきりと形を作っていた。


 琉斗が看護師の後に続いて部屋を出ていくのを、聡也は息を詰めるようにして見送った。


 パタン、としずかにドアが閉じたと同時に、コハクが「はぁぁぁ」と大きくため息をついた。


「なんなんだよ。なんの緊張感だよ。なんなのおまえ、リュウのこと、怒ってんの?」


 なぜ、聡也が琉斗に対し怒ってると思ったのか。

 それが不思議で小首を傾げると、コハクが金色の髪を乱暴に掻き上げてまた溜め息をこぼした。


「いや、怒って当然なんだよおまえは。それはわかる。わかるけど、おまえが病院運ばれてからこっち、リュウはめちゃくちゃ後悔してたしめちゃくちゃ心配してたしおまえに付きっ切りだったんだ。だから」

「なんで?」

「ゆるしてやれっつーワケじゃねぇけどせめて……え? なんか言ったか?」

「なんで、僕が、リュートに怒って当然なの?」

「なんでっておまえ……」


 コハクが絶句して、それから真顔になり、きれいな顔をぐいと近づけてきた。


「おまえ、溺れる前のこと覚えてねぇの?」


 問われて、少し考える。

 溺れる前……。


「橋の下で、歌ってたよ」

「違う。その前。川に行く前だ」

「リュートに……怒られた」


 そうだ。琉斗は怒っていた。


「僕が、リュートの計画を、ダメにしちゃったから」


 いまならわかる。


 琉斗はずっと頑張ってくれていた。

 聡也に……『魂の音』に、しあわせな世界をあげようと、ひとりで頑張っていた。

 それなのに。

 聡也がそれを、ダメにしてしまったのだ。


 だから琉斗が怒るのはわかる。琉斗が聡也に怒ってる、というのはよくわかる。

 それなのになぜコハクは、聡也が琉斗に怒るのは当然だ、なんておかしな勘違いをしているのだろう。


 コハクが鼻筋にしわを寄せて聡也を睨んできた。


「リュウの計画ってのがなんのことかオレにはいまいちわからねぇけど、リュウがおまえを怒ったっていうのは、一方的な情報を鵜のみにしたリュウが悪い。だからおまえは怒っていいんだ」

「……でも僕、怒ってないよ」

「怒れよ。勘違いで責められたんだから、怒っていいんだ」


 そう繰り返したコハクへと、聡也は首を横へ振って答えた。


「でもリュートは悪くないから」


 琉斗は悪くない。

 では誰が悪かったのだろう。


 琉斗があんなに苦しんでいるのは、誰のせいなのだろう。


 どこの流れを、どう変えれば良かったのか。

 幾度も幾度も『魂の音』の最期を繰り返したけれど、聡也にはわからなかった。『魂の音』も、『共鳴』も、誰も悪くなかった。

 なのになぜ、みんなが苦しい思いをしているのだろう。


 過去を変えることはできない。聡也はもう『魂の音』ではないから、そんな魔法も使えない。

 だから、聡也は未来を、つくっていかなければならないのだ。


 琉斗が苦しまなくていい、未来を。



「コハク。お願いが、あるんだけど」


 聡也はコハクの服の裾を掴み、軽く引っ張った。

 小首を傾げてこちらを見下ろしてくるコハクの金髪が、蛍光灯の光を反射して、聡也の目に眩しく沁みた。







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