病院からはタクシーに乗って移動した。
荷物はほとんど琉斗が持ち帰ってくれたし、当面の着替えはまた届けてくれるということで、聡也はほとんど身ひとつでコハクに伴われる形となった。
コハクは帽子を目深にかぶって、サングラスにマスク、というお忍びスタイルになっていて、有名人なんだなぁと聡也は改めて思った。
しかし隠しきれないオーラのようなものがあるのか、タクシーの運転手さんはチラチラとミラー越しにコハクを盗み見ていた。
聡也は琉斗の作成した動画がバスったとはいえ、顔はそれほど知られていないので素のままで良かった。
タクシーに揺られること一時間ほどで到着したコハクの家は、コンクリート打ちっ放しの大きな建物だった。
地下一階、地上三階建ての、シンプルな外観の家の玄関を開けた瞬間、聡也は音の洪水に襲われて立ちすくんだ。ダカダカダカっと空気を振動させる太い音が、腹の奥に響いてくる。
軽く眉をひそめたコハクが靴のままでずかずかと中へ入り、階段を駆け上ったかと思うと、
「部屋のドアは閉めろって何度言わせるんだっ!」
と、乱暴な言葉とともにバタン! とどこかの部屋のドアを閉めた音が聞こえてきた。
そのおかげだろう、空気を震わせるようだった爆音が、すこしやわらいだ。
コハクが軽やかに階段を下りてきて、親指で玄関の奥を示した。
「こっち」
誘われるままに聡也は家に上がった。靴のまま恐る恐る足を踏み出すと、コハクが唇の端で笑う。
「大丈夫大丈夫。皆、土足だから」
皆、とは誰だろう。
小首を傾げながらも玄関ホールを抜けて、廊下を歩く。その間にも、あちこちの部屋から色んな音が聞こえてきて、聡也はなんだか楽しくなってきた。
「コハク、コハク、音がいっぱいだね」
歩きながらコハクの背に向かって声を掛けると、コハクが顔を半分振り向けて頷いた。
「お互いさま物件のシェアハウスだよ」
「おたがいさま?」
「そ。ミュージシャンとか演奏家とかな、そういう奴らが集まってんの。ギター弾いてもよし、ドラム叩いてもよし。好きなときに練習できる代わりに、夜中に他の連中の楽器の音がうるさくても文句言うなってヤツ。騒音はお互いさま、ってな。でも外には音が漏れない造りになってっから、ご近所さんからのクレームは来ないけどな」
そんな家があるなんて知らなかった、と聡也が目を丸くしたら、
「リュウがスポンサーだよ」
コハクがそう教えてくれた。
音楽家が、音楽を好きなように楽しめる場所。
それを琉斗が提供していると知り、聡也は胸が苦しくなった。
『魂の音』に声を発するのを禁じたこと、歌を歌うのを禁じたこと。『共鳴』が味わったであろうその後悔が、いまもまだ、こんなにも琉斗を縛り付けている。
「で、ここがオレの部屋」
コハクが角部屋のドアを押し開けた。
壁際に置かれた数種類のギターがまず目に入った。その他にはソファとローテーブル、そしてベッドと縦長のワードローブがあり、整然とした印象の部屋だった。
「コハクはここに住んでるの?」
なんだか派手な装飾のついたエレキギターを見ながら尋ねると、
「セカンドハウスってヤツだな」
とコハクが教えてくれた。
「オレは一応人気ミュージシャンだから、ふだんはそれなりのトコに住んでる。ここは気分転換用の家」
「それなりのトコ?」
「金かけた家ってことだよ。売れっ子のオレがこんなしけたシェアハウスに住んでたら夢がねぇだろ夢が。ミリオンセラーになったらいい暮らしができるんだってヒヨっ子たちに夢見させてやるのも仕事だからな」
「夢……」
聡也はギターのつるりとした表面を撫でて、コハクへと視線を移した。
「いい暮らしって、なに?」
聡也の言葉に、コハクがたじろいだように肩を揺らした。
「お金をたくさんもらうことが、コハクの夢なの?」
「ちょ、おい、やめろって」
コハクのてのひらが聡也の頬をむにっと押して、顔の向きを変えさせる。
「そんな純真な目で見んじゃねぇよ」
「じゅんしん?」
「おまえってほんと、赤ん坊みてぇなヤツだよな」
コハクの目に苦笑いがよぎるのを見て、聡也は口を噤んだ。
聡也がなにも物を知らないことを、赤ん坊と評されたのだと思った。
きっと、『魂の音』のままだったら、コハクがなにを言ってるか理解できた。
『魂の音』だったら……琉斗をきっと、もっと早くに、もっと楽にしてあげることができただろうに。
なぜ、聡也はこんなふうなのだろう。
なぜ周りのひとのように、ふつうのことが当たり前にできないのだろう。
ノウナシの、ノウ。
施設でよく耳にした嘲りの声が脳裏によみがえってきて、聡也はすこしかなしくなった。
「おい、黙んな」
トン、と肩を小突かれて目線を上げたら、コハクのきれいな目とぶつかった。
薄いグレーの瞳は長い睫毛に縁どられていて、それがふさりと動いてまばたきをする様もまたきれいだった。
「言いたいことあるなら言えっていつも言ってんだろ。なに急にしょんぼりしてんだよ。オレがなんかしたか?」
いつもの荒っぽい喋り方でコハクが問うてくる。その表情に聡也をバカにしたような色はかけらもなくて、落ち込んでいた気持ちが浮上する。
「ううん。コハクは、いいひと」
「……おまえなぁ……。誰でも彼でもそんなふうに懐くなよ。比内のオッサンで痛い目みた……あ、ゴメン」
語尾を濁して決まり悪そうに謝罪してきたコハクへと、聡也は首を横に振る。
「ううん。大丈夫」
あのときのことは、考え無しの自分が悪かったとわかってる。だから大丈夫だと答えたら、コハクが唇を曲げて怒った顔になった。
「大丈夫じゃねぇよ。なんも大丈夫じゃなかっただろ! アイツのせいでおまえは!」
「僕、」
「怒れよっ! おまえはもっと怒れ! おまえは怒っていいんだよっ!」
「でも、僕、」
どう言えばいいのか言葉が見つからずに、それでもなにか答えようと聡也が息を吸い込んだときだった。
「コハクはっけ~ん!」
陽気な声が突然響いて、聡也とコハクは同時にドアの方へ視線を向けた。隙間からひょっこりと顔を覗かせている、赤毛が男の姿があった。