聡也はコハクに送り出され、ヒイラギとともに二階へと上がった。連れて行かれたのはヒイラギの私室だった。
弦楽器のスペシャリスト、と自らを評した男の部屋は、工房になっていた。
壁に立てかけられた木片や、木くずの散らばる床。聡也はその乾いた木の匂いを肺いっぱいに吸い込んで、並べられた楽器をひとつひとつ眺めていった。
「ヒイラギが作ったの?」
「そ。俺天才だから注文が切れないんだよね」
からりと笑って、ヒイラギは作業台の横の椅子へと腰を下ろした。
台の上に置いてあったものを左手に取り、上に掲げていろんな角度からそれを検分する。
「それはなに?」
男の傍らに立って尋ねると、
「ヴァイオリン」
と答えが返ってきた。
「まだ厚いから、もう少し削らないと」
ヒイラギが工具箱から刃の薄いノミを取り出して、手にしたヴァイオリンの表板にシュッと滑らせた。
削れた木くずがはらりと落ちた。
シュ、シュ、シュ、シュ。
初めて耳にするその音に、聡也はすぐに夢中になった。
「なんか歌ってみて」
おもむろに促され、聡也は軽く唇を舐める。
透けるほどに薄い木くず。それを見つめながら「あ」と声を出した。
ヒイラギの手のリズムに合わせて、思いつくままにメロディを紡ぐ。
歌詞はないから、ただのハミングだ。
誰かの部屋から 打楽器の音がした。それは聡也の邪魔にはならなかった。
カーテンの隙間から日の光がまっすぐにヒイラギの手元に届いていて、きれいだった。
喉を震わせて最後の音を、空気へと溶かし込む。
聡也の声が途切れたタイミングで、ヒイラギも手を止めた。
「なるほどね」
男がひとつ頷き、削っていた面をそっと手で払った。
「コハクの言う通り、きみの歌にはきみ自身が居ないね」
ヒイラギが作りかけのヴァイオリンをそっと台に置き、立ち上がった。
「メロディラインは面白い。見たこともない異国の曲を聴いてるみたいだった。でもなにも伝わってこない。きみが歌になんの気持ちも込めてないからだ」
遠慮のない口調で話しながら、ヒイラギはいくつもある黒いケースのひとつを手に取り、そこから完成しているヴァイオリンを取り出した。
足を少し開いて立ち、背筋を伸ばす。左肩にヴァイオリンを載せ、顎で軽く挟んだ。
そのきれいな構えのまま、ヒイラギは右手に持った弓を弦にすべらせた。
幾重にもなった音が響きだす。
しばらく適当に間延びした音を奏でていた弓の動きが、不意に変わった。
弾むようなメロディが飛び出す。軽快なそれは聡也の気持ちもウキウキとさせた。だが途中からは音は低く、重くなり、聞いている聡也もなんだかすごくがっかりとした気分になった。
ギィィィ、と物悲しい音を残して、ヒイラギが構えを解いた。
「どうだった? 俺の即興曲」
「……最初は楽しかったのに、最後はかなしかった」
気持ちのままに応えると、ヒイラギがうんと頷いた。
「いまの曲は、コハクとデートができる~と思って浮かれて出かけたのに、途中で鳥のフンが頭にヒットしてめっちゃガッカリした、っていうストーリーね」
だから聡也の解釈で合ってる、と言ってヒイラギが笑う。
彼は右手の弓を、三拍子を刻むように三角の形に振りながら、言葉を続けた。
「楽器は感情がないと弾けないよ。音が鳴らない。なんでこの世に音楽が生まれたと思う? ヴァイオリンなんかなくてもひとは死なない。でも、ヴァイオリンがなければ表現できない感情があった。この意味がわかるかい?」
ヒイラギの質問は聡也には難しくて、聡也は首を横に動かした。
物分かりが悪いと怒られるかなと思ったけれど、ヒイラギはコハクと同じで、怒ったりはしなかった。ただ滔々と話を続けた。
「いまはそれを忘れてるひとが多いけど、楽器は、言葉にできない感情を表現する手段だったんだよ。いいかい、昔はいまほど発言の自由なんかなかった。 コハクの歌は聴いたことある? 歌詞がすごいだろう。コハクの歌は歌詞もメロディもストレートだ。言ってはいけないことなんか彼には存在しない。そこがいい」
惜しみないコハクへの賛辞を早口に述べて、ヒイラギがまたヴァイオリンを構えた。
「でも世が世なら、コハクはとっくに処刑されてる。国を、
魔法、という言葉を彼は使った。
楽器が、魔法。
『魂の音』の歌のように。
楽器は魔法だった。
口にできない感情を伝える、魔法だった。
「技巧や曲の解釈、楽譜の読み方は二の次だよ。楽器は感情だ。伝えたい感情のない人間には弾くことなんてできないよ。……って、コハクが聞いてたら適当なことぬかすんじゃねぇとか言われるんだろうけど。あ、ぜんぶ俺の持論だから真に受けないように」
話しながら彼は、弓を自由自在に動かして音楽を奏でた。
今度は華やかな音だった。
ヒイラギがヴァイオリンを奏でることを楽しんでる音だった。
正直、聡也は彼の話を完全に理解できたわけではなかった。たぶん、きっと、一割ほどもわかっていないだろう。
難しい言葉も多かったし、なにより早口だったからその意味を咀嚼できなかった。
それでも、楽器は感情を伝える魔法の道具、ということは理解できた。
『魂の音』に教えてあげたかったな、と思う。
あのとき、あの世界にヴァイオリンはあったのだろうか? なんらかの楽器はあっただろうか? こまかいところは覚えていないけれど、『魂の音』が楽器を弾けたなら、たとえ口を開くことを禁じられていたとしても、『共鳴』に色々伝えることができたかもしれなかった。
「僕も。魔法を使いたい」
聡也は、目を閉じてヴァイオリンを奏でているヒイラギへと、そう伝えた。
ヒイラギが片目を開き、面白そうに目尻にしわを作った。
「じゃあきみの内側をぜんぶ、晒す覚悟をするんだね」