琥珀がシェアハウスに聡也を連れてきてから、一週間が経過していた。
この家にあった琥珀の部屋は、聡也へと提供した。だから琥珀は毎日ここへ顔を出すようにしていたが、夜は自宅へと戻るという生活を送っていた。いまはレコーディングやライブの予定もないから、完全フリーだ。その自由時間を、シェアハウスと自宅の往復に当てている。
自宅は、都内が一望できるタワマンの、最上階にある。部屋は余っているのでそこに聡也を泊まらせてやっても良かったが、どこか幼いような彼のキャラクターを考えると、タワマンよりはこのシェアハウスの方が気兼ねせずに過ごせるのではないかと思った。
それに、ここのオーナーは琉斗だ。彼のテリトリーに聡也を置いておけば、琉斗も安心だろうという琥珀なりの配慮もあった。
お互いさま物件、と聡也に語った通り、この家では常に誰かしらが楽器を弾いたり、歌を歌ったりしている。
うるさいと思うことももちろんある。特に
そのドラムすらをも、聡也は楽しそうに聴いている。
彼が本当に音楽を愛していることが、その表情からよくわかった。
それなのに。
「どうだ?」
琥珀は
柊がノミで木を削りながら、「ん~」と気のない声をもらした。作業に集中
しているわけではない。ただ単に勿体つけてるだけだ。
それがわかるから琥珀は、イライラと眉を吊り上げて「おい」とドスの利いた声を投げた。
本当は彼の座る椅子の足を蹴ってやりたいところだったが、刃物を持っているいまはさすがに危ないので自重した。
「ソウよりも俺に興味持ってよ」
柊が手元に落としていた視線を上げて、ふざけた口調で笑う。
「テメェに興味なんてねぇよ」
吐き捨てるように返して、琥珀は立てかけてあったクラシックギターを手に取った。
指先で弦を弾くと、ポロン、と軽やかな音が鳴った。
「あいつ、形になりそう?」
昔に流行った洋楽のイントロを弾きながら問いかけると、柊が手を止め、また「ん~」と答える。
「センスは悪くない。リズム感は面白い。声はいいね。まぁ琥珀の方が断然にいいけど」
「あっそ」
「ただ、すっごいアンバランスだね」
作業台にノミをコロンと転がして、柊が肩を回す。
「喜怒哀楽の割合がさ、わりとおかしいよ、あの子」
あの子、と聡也をそう呼んだ柊が何歳なのか、琥珀は知らない。二十歳そこそこの聡也よりは確実に年上だろうけど、アラサーの琥珀とはどうだろう。年上のようにも見えるし、年下と言われてもべつに驚かない。ボワボワの天パが柊を年齢不詳にしているのかもしれなかった。
「おかしいって?」
琥珀が尋ねると、わかってるくせに、と柊に吐息で笑われる。
「あの子の歌はさぁ、ひとが歌ってるって気がしないよね。野兎が歌ってるって言われたほうがまだ納得できる」
柊の感性は独特だ。けれど、わからなくもない。
草壁聡也、という青年の歌は、彼自身の存在を感じさせない。それを希薄だ、と琥珀は評したが、柊は野生動物を思い浮かべたのだろう。
「野兎か」
琥珀が呟くと、柊が小さく首を傾げた。
「植物でもいいよ。きっと、庭の梅の木が歌ったらあんな感じだ。ある意味すごいよね~。あんなふうに育つって」
「あんなふうって、どんなだよ」
「例えばさぁ、雪が降るじゃん」
「おぅ」
「そしたら寒いじゃん。寒い寒いって体縮こませて、早くあったかい場所に行きたいな~とか琥珀のベッドにもぐりたいな~とか、琥珀にあっためてほしいな~とか色々考えるじゃん」
「キメェ」
琥珀は眉を寄せて、柊の椅子を蹴った。もうノミを持っていないから多少乱暴しても大丈夫だ。
柊はカラっと笑って、ずれた尻を元の場所に滑らせると、言葉を続けた。
「でもソウは、寒いな、で終わり。そこから発展しない。ぜんぶひとりで完結する。目の前の事象をあるがままに受け入れて、そこで終わり。きれいなものは、きれい。可愛いものは、可愛い。それでお終い。だからあの子の出す音には広がりがない。だって、ぜんぶ自分だけで完結してるから」
なるほど、柊は聡也の音をそう捉えたのか、と琥珀は指の長い男の手を見つめた。ギター、ヴァイオリン、チェロ……様々な楽器を生み出す手だ。
製作家をする傍ら、柊自身も演奏する。自らが作った楽器を、自らで弾く。だからだろうか。彼の奏でる音は特別だ。
楽器の注文だけでなく、バンドメンバーにぜひ、という誘いは引きも切らない。しかし当の本人は半分隠居したような生活を、このシェアハウスで送っている。
ことあるごとに自分を口説いてくる柊の言葉を、琥珀はあまり信用していなかったが、彼の耳は信用している。彼の、腕も。
「なんとかなりそうか?」
「なんとかしてほしい?」
「……」
質問を質問で返され、琥珀は沈黙した。
この男に借りはあまり作りたくない。しかし。
「なんとかしろ」
琥珀は鼻筋にしわを寄せて、そう言った。
「リュウがもう、限界っぽい」
聡也がここで音楽を習っていたこの一週間。琉斗はずっと苦しんでいた。
そもそも彼は、聡也が川で溺れた原因は自分にあると言い、激しいまでの後悔に胸を焼いていた。
悔やみすぎてなんだかよくわからない独り言を口走るほどに。
こいつ大丈夫かよ、と琉斗の正気が真剣に心配になったそんな折、意識不明だった聡也が目を覚ました。
これで琉斗も落ち着く、と安堵した琥珀だったが、聡也が「言葉を節約する」とかこれまたわけのわからないことを言い出して琉斗と口をきかないままにこのシェアハウスへ来てしまったものだから、琉斗の精神状態は日に日に悪化の一途を辿っている。
「最近じゃあなんか怨霊背負ってんのかって言いたいぐらいどんより暗いしよ。マジ気が滅入る」
だから聡也を一刻も早く琉斗の元へ返さなければ、と琥珀は思うのだが。
「そう言いつつ、毎日リュウのトコ行くんだ?」
不意にワントーン落とした声音で、柊がそう言った。
「は?」
「おまえまだリュウのこと好きなの?」
「テメェに関係ねぇだろ」
琥珀が吐き捨てた瞬間、ガンっ、と鋭い音が鳴った。柊が作業台を蹴ったのだ。
過去に琥珀が琉斗と体の関係を持っていたことを、柊には知られている。一瞬で鋭くなった男の目には嫉妬が揺らめいていて、琥珀は圧倒されまいと睨み返した。
無言で対峙していると、ふと、階下からの歌が耳に届いた。
聡也の声だ。
琥珀はギターを置いて立ち上がり、部屋のドアを開けた。伸びやかな彼の声が、空気を揺らしていた。
琥珀は目を丸くした。思わず柊を振り向くと、シリアスな空気を霧散させた男が、目じりを下げてくしゃりと笑っていた。
「なんともならないとは、言ってないし」
「……おまえ、なにした?」
そう尋ねたくなるほど、聡也の歌の聞こえ方が、これまでとは違っていた。