伴奏も歌詞もない、「あ」と「ら」だけのアカペラだった。
しかしこれまでの聡也の歌い方とは、明らかに違っている。
「言葉を節約するって言ってたっけ? あの子」
軽く目を閉じて聞こえてくる聡也の歌声に耳を傾けながら、柊がくすりと笑った。
「面白いこと考えるよね。でも、それが良かったんじゃん?」
「は?」
「あの子はもっと、自分の感情を煮詰めることを覚えなきゃだからね。言葉を自分の内側に溜めるっていうのが、合ってたと思うよ」
柊の言葉は、わかったようなわからないような気がして、琥珀は「ふぅん」と生返事をした。
柊は自身のくせっ毛を指先で弄りながら、空いた片腕で愛器であるヴァイオリンを取り上げた。
「あの子はさぁ、感情をぜんぶ受け流すんだよね」
くるん、と巻いた毛先から指を離して、その手に弓を握った柊が、聡也の放つメロディを確かめるように数度それを振る。
「いいことも悪いことも、あの子の中を通り過ぎてしまえばもうぜんぶ一緒。育ってきた環境のせいかな」
「環境?」
「施設育ちで、ノウって呼ばれてたって。ノウナシのノウ」
「イジメじゃねぇか」
「それをイジメと理解したくなかったんじゃないの? あの子なりの自衛でしょ。ちょっかいをかけてくるイジメっ子は、自分を構ってくれるいいひとに。殴ってくる先生は、叱ってくれるいいひとに。安い給料でこき使う会社は、自分に仕事をくれるいいひとに。無理やりにそう変換してたんじゃん?」
「…………」
琥珀は、柊の語る聡也の内面を想像しそこねて、唇を噤んだ。
鬱屈を鬱屈として抱えておくことすらできずに、真逆の感情に変換してやり過ごしていた聡也。
それを琥珀は、人の良さだと、思っていた。
聡也はお人好しだから、なにを言われてもニコニコしているのだと思ってた。
初めて彼に会ったとき、琥珀は彼を攻撃した。
売れたらリュウに捨てられる、と言って。
勘違いするんじゃねぇぞ、と言って。
聡也にひどい言葉をぶつけた。
それに対して聡也は、無垢な瞳でにこりと笑って。
教えてくれてありがとう、と。
琥珀はいいひとだね、と。
そんなふうに、答えたのだった。
聡也は知的な発育が遅れている。
言葉もすらすら出て来ない。
でも、ぶつけられた悪意を理解できないわけじゃないのだ。
柊が言うように、それを理解した上で、自分が傷つかないように上手く変換していただけなのだろう。きっと、そういうことなのだ。
「あの子は受け流すことに慣れすぎて、どんな感情も、強く留めておくことができなかったんだ。いいことも悪いことも等しく流れていく、一時的なもの。そういうふうに処理することに、慣れちゃったんだろうね」
聡也の歌声に、柊の言葉がかぶさった。
「だからその感情の流れを、せき止めることが必要だったってワケ」
ヴァイオリンの弦の上を、弓が走った。
ギイイィィ、と鳴った音が不思議と聡也の声に溶け合う。
離れた場所から届く声に合わせるためだろうか、柊の奏でる音は弱く小さかった。しかし物悲しさはなく、ただただやさしい音色だ。
柊が全身全霊で聡也の感情に寄り添おうとしているのがわかった。
だからこの男はすごいのだ、と琥珀は思う。
誰にでも溶け込んで、そして誰にも溶け込まない己を持っている。
琥珀は少しの間、耳に心地よい二人のユニゾンを堪能した。
先に途切れたのは聡也の歌だった。
声が広がりきったと思ったら、唐突に彼は歌うことをやめた。
柊も弓を止め、苦笑いを浮かべた。
「いつもここで止まるなぁ」
「そうなのか?」
「まだ自分の感情が掴み切れてないんだ。だから歌に迷いが出る」
「いいのか?」
「ん?」
「あいつの感情をせき止めて」
琥珀は赤ん坊みたいな聡也の瞳を思い出しながら、問いかけた。
「いいのか?」
ヴァイオリンを手慣れた動作でケースに戻して、柊が首を傾げた。
「さぁ?」
「おまえ、いい加減なことっ」
「でもさぁ、その方が健全じゃん?」
なんでもないことのようにそう言って、柊が琥珀へ近づいてくる。
「いいことはいいこと、悪いことは悪いこと。そう受け止められる方が、俺はいいと思うけど。変に流して平気なふりをするより、感情に振り回されるほうがよっぽど人間らしい」
人間らしい、と男が言った言葉を琥珀は口の中で繰り返した。
確かにそうなのかもしれない。
だって、いま耳にした聡也の歌声は、あれは『人間』のものだった。『野兎』でも『梅の木』でもなかった。草壁聡也という存在が確かにあった。
それが感情をせき止め、己を煮詰めた結果なのだとしたら、柊の言うこともあながち間違いではないのだろう。
「いいはいい、悪いは悪い、好きなものは、好きってね」
柊が琥珀の手をすくい上げ、手の甲のチュッとキスをした。
「調子乗ってんじゃねぇぞ」
琥珀は握られた手を振り払い、返すそれで男の頬を容赦なく叩いた。
悲鳴を上げた柊が、頬をさすりながら眉をしかめる。
ひどいあんまりだ、と恨み言をこぼす彼に背を向けて、琥珀はあんな歌を歌った聡也がいまどんな顔をしているのか見に行ってやろうと思い、柊の部屋を後にした。