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第12話 何もかもが特別なもので

 * * *



 もしかしたら、一瞬だけ寝てしまったかもしれない。そんな空白の時間から、夕食の支度だと身を起こす。

 幸い、時刻は支度にちょうどいい。

 キッチンでエプロンを着け、手を洗って料理を始めた。

 まず、細かく刻んだネギは水に晒して余計な辛味を取っておく。代わりに大根おろしは大根の下の方を使う。

 あとは花かつおで旨みと風味を足した。わさびは好みに合わせて使ってもらえばいい。

 蕎麦は乾麺なので茹で時間が長いが、茹で蕎麦よりも弾力があり喉越しも良い。茹で時間をきっちり守って、流水で洗う。

 それらを丁寧に盛り付けて、テーブルに並べた。

 ──さて、優和さんを呼びに行かないと。

 あらかじめ教わっていた部屋に行き、そこで思わず立ちすくむ。

 ──何だろう、ドアをノックするだけなのに、どきどきする。

 優和が部屋で何をしているか、ドア越しでは何も分からない。もし仕事に集中していたら邪魔にならないか?これが躊躇わせる。

 かと言って、もたもたしていたら用意した蕎麦が不味くなる。せっかく家で食べる食事なのだから、美味しく食べて欲しい。

 思いきって軽く三回ノックすると、ドアの向こうから優和の声が返ってきた。

「勇人か?」

「はい。──優和さん、今大丈夫ですか?夕飯の支度が出来ましたけど……」

「ああ、今行く。企画書には目を通したところだ」

 どうやら仕事を邪魔せずに済んだようだ。勇人はほっと胸を撫でおろして優和を待った。

「待たせたな。──それにしても、家で飯なんて一人暮らしを始めてから一度でもあったか、記憶にない」

「でしたら、今日は記念日ですね」

「記念日、な。まあ勇人と二人になる記念日としても残せるといいな」

「う……残してみせますからね」

 口ごもりながら反駁すると、優和がいたずらめいた笑みで応えた。

「楽しみだ」

 ──どこまで本気なのか分からないんだよなあ。

 それも、いつかは読めるようになるのだろうか?

 そこまで親しくなる未来──まだ思い描けないが、未来はいつだって未知数だ。

 冷やし蕎麦を並べたテーブルに二人で着いて、勇人が簡単に説明した。

「薬味には、ネギと大根おろしと花かつおを用意しました。つゆが市販品なので、優和さんの口に合うか分かりませんが……」

「いや、市販品でも気にはしない。美味くなるようにリニューアルが繰り返されてるしな。薬味はどこかの地方を参考にしたのか?」

「はい。検索してみたら美味しそうだったので。丼のお蕎麦に出汁をかけて食べるみたいでしたけど。──あと、わさびと刻み海苔もありますよ」

「わさびは欠かせないな。──じゃあ、二人の新生活を記念して──頂きます」

 優和はちゃんと手を合わせてから箸を取った。きっと子どもの頃から躾を受けてきたのだろう。

 蕎麦を取るにも行儀の良さが伺えて、勇人は何となく好感を持ってしまった。

「うん、美味いな。茹で加減もちょうどいい」

「良かったです、何か安心しました」

「そういうものか?」

「父にしか手料理を出した事がなかったので」

「なるほどな。確か父子家庭だったか、父一人子一人で頑張ってきたんだな」

「そう言ってもらえると嬉しいです」

 優和は勇人が居心地よく食べられるように思いやってくれていると分かるし、言葉からお世辞や嘘は感じない。

 ──こういう所、女の人が見たらそれは好きになるよな。

 もてるのも頷ける。パーティーで女性をあしらい慣れていたのも、経験がそうさせていたのだろう。

 そんなことを考えている間にも、優和は気持ちいいくらい綺麗に食べていってくれる。

 その姿を見ていると、勇人も引越し蕎麦という記念の料理が、さらに美味しく感じられた。

「──ご馳走様。美味かったよ。片付けは俺がしておくから、置いておけばいい」

「二人で片付けた方が早く終わりますよ」

「親睦も深めやすくなるか?」

「それは、その、どうか分かりませんが……」

「まあ、美味い蕎麦の礼だと思ってくれ。──先に風呂行っていいからな。多分、新しい案件が届くから」

「じゃあ、ありがたくお願いします」

 箸を置いて、「ご馳走様でした」と手を合わせ、勇人は席を立った。変に遠慮するよりも優和のペースを乱さずに済みそうだからと考えて、言われた通りにする事にした。

「──勇人。風呂上がりに髪をタオルドライしたらヘアオイル使えよ。近いうちにお前の髪質に合ったやつをサロンで見繕うが、とりあえず俺のを貸すから」

「ヘアオイルですか?」

「枝毛になりかけてる髪がある。仕事を受けていくなら、身だしなみも大事だからな」

 ──自分では気づかなかった。

 そんなに細かく見られていたとは、どうにも気恥ずかしい。しかも欠点を、これはいたたまれない。

「ヘアオイルは手のひらで温めてから毛先に付けるんだ。それから、髪の下半分に馴染ませるといい。使っていくうちに艶が良くなる」

「はい、……あの、だから優和さんの髪はカラーしていても艶々なんですね」

 優和の焦げ茶色の髪は、コシも艶もあって手入れが行き届いているとひと目で分かる。

 しかし、意外な一言が返ってきた。

「俺か?ヘアカラーはした事ないぞ」

「え?じゃあ髪色は地毛なんですか?」

「ああ、祖母がドイツ人でな。髪と目の色は遺伝だろう」

 優和は髪だけでなく、確かに目の色も日本人にはあまり見ない、色素の薄い茶色だ。

「クオーターって言うんでしたっけ?」

「そういう事になる。俺がまだ小さくて祖母も生きてた頃、毎朝部屋に押しかけては『グーテンモルゲン』って抱きついてたらしい」

 優和の子ども時代を少しだけ知り、勇人はその温かな光景を思い浮かべる。

「おばあちゃんっ子だったんですね」

「優しかったよ、忙しい両親の分も相手してくれてな。あとは歳を取ってもテニスが好きだった。──ほら、俺の昔話はいいから風呂に行け」

「あ、はい。頂いてきます」

「ヘアオイルは脱衣所の棚の青い瓶だぞ」

「分かりました。使わせてもらいますね」

 ぺこりとお辞儀をして、ダイニングを後にする。ちらりと見やった優和の姿は、危なげなく食器をシンクに運んでいた。

 おそらく、実家でこうした手伝い事をして慣れているのだろう。手伝いが自炊を覚える事には繋がらなかったのは残念だ。

 ──ともかく、ひとつ屋根の下でお風呂……いちいち緊張してる僕が意識しすぎなのかな。

 躊躇いもあるが、まずは浴槽に湯を張りに行く。

 バスルームも浴槽も広々としていたが、ジャグジー等の特殊な物ではなく、使い勝手は勇人が住んでいた家の風呂と大きな違いはない。

 むしろ、ゆったりと湯に浸かってリラックス出来そうな趣きだ。

 シャワーヘッドは見た事のない形だったものの、使い方自体は普通に使えばいいようだった。

 ──それにしても、お風呂もきっちり磨いてるなあ……精神統一したい時が多いのか、綺麗好きなのか。

 感心しながらバスルームのボタンを押して湯張りを始める。

 そこから一度出て、何とはなしに化粧台を見てみると、整頓された道具類が並んでいた。

「……わ、木の櫛だ……僕のブラシと全然違う」

 化粧台に置かれている櫛は何の木で作られているのか分からないが、落ち着いた艶を放っている辺り、長い間大切に使い込んできたものだと素人目にも分かる。

 ──優和さんは、物を大事に使うんだな……。

 そこに新たな一面を知る事が出来て、少し嬉しい。

「あ、着替え取りに行かなきゃ」

 普段、パジャマには白いスウェットを使っている。それからタオルと下着も出して、と考えながら部屋に戻った。

 用意をして少ししてからバスルームに向かうと、ちょうど湯張りが終わったところで、勇人はまた妙にどきどきしてきてしまう。

 ──優和さんが日常で使ってる、プライベートな領域だと思うと……いや、ここは湯船で落ち着こう。

 言い聞かせながら掛け湯をして、そっと浸かる。お湯の温かさは場所が違えど変わりなく、ほっと息をついた。

 ──入浴剤の香りも良いし……落ち着く……。長湯しすぎないように気をつけないと。

 しかし、だ。宿題も夕食も済ませてある。残るは睡眠の時間、ただひとつ。

 ──同じベッド……!そりゃ優和さんも僕も男だし、恥ずかしがるような理由はないんだけど!優和さんも僕が寝てから行くって言ってくれてたし!意識しすぎるな僕!

 心の中で必死になるものの、つまりは寝顔を見られてしまうという事だ。勇人は悶絶しながら、ばしゃんと湯船に顔を突っ込んだ。

 恥ずかしさで火照っていた頬が、湯で余計に火照る結果になる。

 ──……馬鹿じゃん僕……ああもう、どうにでもなれ!

 腹を括る勇気を出すよりも先に、自暴自棄の心境へ辿り着いてしまった。

 ──体洗ってシャンプーして!何だろうボディソープとシャンプーがドラッグストアで見た事ないやつだ!え、香りも柔らかくて爽やか!イケメンの御曹司ってこういうのでボディメンテしてるんだ!

 やけっぱちのスイッチが入った勇人は、湯船から上がると猛烈な勢いで全身を磨いた。

 バスルームから出てタオルを使い、スウェットを着て──言われた事を思い出し、青い瓶を手にする。

 ──うわあ、これも香りが高級そうな……。お高そうで使いにくい物の包囲網すごい。

 一滴出すにも戸惑う。オイルならば、きっとムースやスプレーとは違って少量でいいはずだが、ふわりと鼻腔をくすぐる香りは優和の髪とお揃いになる。

 そう思い至ると、また頬が熱くなった。顔面が大変忙しい。既にボディソープとシャンプーがお揃いになってしまっていたのだが。

 ──とりあえず、一滴だけ……ええと、手のひらで温めて毛先に……足りてないって叱られないよな?

 使いにくいが、きちんと使わずにいて気づかれた場合も、どうにも想像したくないような結果になるのが目に見えている。

 ──しかもヘアオイルなんて初めて使うし……あっ、初めてだったから上手く出来ませんでしたすみませんって言えばいいんだ!

 髪の毛とヘアオイルと格闘した末、言い訳に走る事にした勇人は、さっさとドライヤーで髪を乾かしてしまい、結論、化粧台から逃げた。

 そこまではいいが、逃げられないものもある。

 寝室一緒、ベッド一緒問題だ。

 寝室には入れたが、いざベッドを目の前にすると、大きめなはずなのに狭く見える。

 ──このベッドで優和さんと並んで寝るのか……。

 誰かと一緒に暮らすという事は、一体何回の覚悟を繰り返せばいいものなのか。

 念の為、ベッドはセミダブル。寝るのは成人男性と男子高校生。スペース的に、きっと体温が伝わり合う。

 勇人はベッドに浅く腰かけ、清潔なシーツを凝視した。

 ──優和さん、素肌にガウンとかで来そうな……何て言うかセレブっぽい雰囲気で……。

 それは勇人にとってセクシーが過ぎる。

 ──パジャマ着てきて下さい!シルクでも良いのでパジャマを!露出は控えて!

 そう念じながら素早く動いて、傍らに背を向ける体勢でベッドに潜り、ぎゅっと目を閉じる。

 ──寝よう、寝てしまえ僕!羊が一匹二匹!頭の中真っ白になれ!

 そう考えているうちは寝つけないものなのだが、不幸中の幸いか、勇人は育ち盛りの少年だった。寝心地のよいマットレスを使ったベッドが、半強制的に勇人を健やかな眠りへと連れてゆく。

 ──羊……真っ白……。

 瞼も脳もとろりとしてきて、いつしか静かな寝息をたてていた。

 その頃、部屋でパソコンに向かっていた優和は立ち上がって伸びをした。背筋が伸びてすっきりする。

 風呂は既にシャワーで済ませてあった。

「……さて、仕事も片付いたし、そろそろウイスキーでも呑んで寝るか……」

 独白してパソコンの電源を落とし、部屋を出る。キッチンでグラスに氷を入れ、気に入っているウイスキーを注いだ。

 一口、口に含んで味わう。

 豊かな香りと強いアルコールが効いている。

「……美味いな。あいつは酒呑みを心配してるみたいだったが」

 心配されるのも、相手によっては悪くない。──少し意地の悪い気持ちかもしれないが、優和はくっと笑みを刻んで再びグラスに口をつけた。

「……思えば、おかしな奴なんだけどな」

 それを拒まなかった優和も、自身をおかしく思わずにはいられない。

 しかも、不快にならないだなんて。

「今夜の酒は程々にしておいてやろう、あいつが寝るまでの暇つぶしだ」

 ──時は経ち、夜更けになり──ゆっくりと寝室のドアが開けられた。

 シンプルなパジャマを身に着けた優和だった。

 彼は足音を立てずにベッドまで歩み寄り、眠っている勇人を見下ろした。

「……こうして見ると、普通の男子じゃないか」

 横向きの寝顔は安らかで、そこに浮き世の苦難はない。優和は手を伸ばして、起こさないように優しく勇人の前髪を梳いた。

「まだ高校生なのに、大人の世界で丁寧語や敬語を使いこなしてるんだからな……勇人、お前……いつか俺の前でくらいは、年相応のあどけなさも見せるようになれよ?」

 出逢ってから、まだ共にした時間は短い。

 互いを知るには足りない時間。その分ならば、これから作ってゆけばいい。

 目を疑った出来事、それにより生まれた単なる興味、その程度のものを──どうしてか味わい深くする、もっと知ろうとしてみようと思わせる力を、優和は勇人から感じていた。

 これは好奇心みたいなものだ。恋でも愛でもないと自身の心を俯瞰している。

 それでも、わけもなく楽しい。

 勇人への今の感情が、この先どんなものに変わるか化けるか──楽しみなのだ。

 そして、一方では、大人の闇を見なければならない勇人が痛ましい。

「……夢の中では、明るいものだけ見てろよ」

 まるで祈りのようだと苦笑して、優和はするりと勇人の隣に入り込んだ。

「おやすみ、勇人」

 眠りの夢には、どうか癒しだけを与えて欲しい。

 その願いは、誰の為のものか──。

 分からぬままに、優和もまた目を閉じて眠りへと落ちていった。

 夜が誰にでも闇と安寧をもたらしてくれるのならば──どんなにか幸せだろう?

 時には眠れぬ夜もある。

 そこに不安や不穏を味わいもする。

 しかし、眠れる夜は待っていると信じられたら、人は耐えられる。

 満ち足りた睡眠の夜もあると。

 優和は浅い眠りの中で、夢さえ見ない程の深い眠りを求め──知らず、勇人の手に触れていた。

 温かい手は、胸の奥まで温もるようだった。

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