* * *
翌朝、平日と同じ時間に目を覚ました勇人は、隣で眠る優和の寝顔を間近に見る事となり、彫刻みたいな美貌の威力と、それが近すぎる威力で飛び起きそうになった。
──堪えろ、駄目だ、優和さんを起こさないように静かに抜け出すんだ。
どくどくと激しく脈打つ心臓を押さえながら、寝起きでも何とか理性をフル稼働させる。
物音を立てないように、刺激しないようにとベッドから出て立ち上がり、忍び足で振り返りながら寝室を出た。
──任務達成。
はあ、と長く息をつく。よくこんなに出せる程の空気が肺にあったものだ。
──ええと、洗顔、歯磨き、着替え、それから朝食作り!
美人は三日で飽きるとか嘘だと思い出しながら、手早く支度してキッチンへ向かった。
献立なら決めてあるし、難しい料理でもないので、手際よく用意出来た。
──ご飯はタイマーにしておいたから美味しい状態で出せる。それにしても、高そうな炊飯器なのに新品みたいに傷がなかった……。
ともかく優和の起床を待っていると、いつの間に身支度を整えたのか、きっちりした姿で優和が現れた。
「勇人、おはよう。早いんだな、日曜だろ?」
「おはようございます。優和さんこそ、日曜なのにお仕事があるでしょう。──あの、朝ご飯、出来てますよ」
彼の反応が気になるし、緊張して言いにくかったものの、かろうじて普通に言えた。
テーブルに着いた優和に、ほんのりと湯気を立てる朝食を差し出す。
「朝早く起きて、大変だったろ。──梅茶漬けと、何かの味噌汁か?」
「とろろ昆布のお味噌汁です。朝はお味噌汁が良いんですよ、代謝も免疫力も上がりますし、脳の働きも良くなるのでお仕事も効率よく始められます。とろろ昆布なのは、優和さんがお酒を呑むので……昆布は体内の水の巡りを良くしますから、血流を良くするお味噌汁との相性も良いですし、それに、野菜の青臭さとかが苦手な人には特にお勧めです。旨みがあるので」
「……その説明、女子力高すぎないか?」
優和が驚いているのか呆れているのか分からない面持ちになっている。確かに、一般的な男子高校生が披露する蘊蓄ではないかもしれない。
だけど、これにはれっきとした理由がある。
「あの、これは父が母を亡くした後、しばらくお酒が増えていたからなんですよ?やっぱり息子としては心配になるじゃないですか?」
「それで酒呑みの体に良いものを調べた、と。……勇人は家族思いなんだな」
「そうですか?普通だと思いますけど……あ、梅茶漬けも、梅酢が肝臓に良いので食べて下さいね。──あと、ローズヒップティーを作り置きして冷蔵庫に入れてあるので、炭酸水の代わりに飲んで下さい」
ローズヒップティーは、前日お湯を沸かして仕込んでおいたものだ。熱いうちに飲むのも美味しいが、冷やしても美味しく飲めるし喉越しが良い。酒呑みに優しいハーブティーなので、優和に飲ませたくて用意した。
「訊いたらますます女子力が高くなった……ハーブティーなんて飲んだ事ないぞ、俺。それでも大丈夫なのか?」
「ハイビスカスをブレンドしたものなので、酸味やクセがまろやかになってますから、初心者でも飲みやすいです。優和さんがお酒を控えるなら、僕もおせっかい控えますが」
「……いや、ありがたく世話を焼いてもらっておく」
「控えないんですか……」
「まあ気にするな。頂きます。──あ、これ美味いな、味噌汁。酒で疲れた胃に沁みる。とろろ昆布も美味いし、懐かしいような味だ」
「それなら良かったです。これから毎朝ご飯作りますからね」
「……それも悪くないなと思ったよ。朝から、ありがとうな」
優和が表情をやわらげて微笑む。普段とのギャップに勇人は思わず目が釘づけになった。
──あんまりじろじろ見てたら食事の邪魔になる。
慌てて目線を逸らしたものの、優和の笑顔は脳裡に焼きついていて、鼓動を加速させていた。
「──そうだ、勇人。登校は不都合なさそうか?」
──良かった、気にしてないみたいだ。話題も変えてくれたし。
「はい。最寄り駅までの距離がすごく短くなりましたし、電車も調べたら乗り換えがなくなりましたから楽です」
「それでも朝は混むだろ。明日の月曜からはグリーン席で行けよ」
普通車両のグリーン席は高いと記憶している。高校生が毎日の通学に使うものではない。
「さすがに、そこまでの贅沢はどうかと思いますけど……」
「雇用主からのお達しだ。言う事聞いて、無駄な体力と気力は使うな」
「え……優和さん、それお達しというより甘やかしですよ?」
「何とでも言え。──ご馳走様、今朝も美味かったよ。悪いがすぐに仕事だ」
「あっ、優和さん──」
──断ろうとしてたのに、スルーされた……わざとだろ……。
もっとも、優和なりの思いやりなのだろうと察しはつく。過分な贅沢だが。
──雇用主って言われちゃうと、従わなきゃって反射的に捉える自分も恨めしい……僕、社畜体質なのかもしれない。
己を悲観しそうにはなったが、とりあえず従う事にする。
食器を片付けて食洗機で洗い、部屋に戻って勉強机に向かう。
宿題は昨日終わらせたので、今日の勉強は予定通り復習と予習だ。
──昨日と今日は、僕の仕事が入らなくて良かった。
こんなにのんびりした土日をすごせるなんて久しぶりだ。──いや、心はちっとものんびりしていないが。昨日なんて怒涛の如く一日がすぎたが。
そんな心がどうであれ、ありがたい事はありがたい。
──でも、土日両方に仕事がないなんて、今まで一度でもあったっけ?
記憶を辿ると、悲しいかな皆無だ。この二日間は奇跡でも起きているのか。
「……まあ、良かったよ。英単語の暗記もしとこう」
勇人は知らなかった。
実は、優和の差し金で仕事を誰にも入れさせなかったという恐ろしい事実を。
知らない事は、全てが罪ではない。
おかげで勇人は休日を存分に活用出来たのだから。
「──おい、勇人。食事に行くから支度しろ」
そろそろ休憩しようかと思っていたところ、ドアの向こうから優和が声をかけてきた。
急いで立ち上がってドアを開ける。
「もう夕方になりましたか?」
「少し早いが、今日の店は車でも少し距離がある」
「あの、またレストランみたいな感じですか?」
「和食レストランだが、どうかしたか?」
──明らかに創作料理とかの価格設定高めの店だ。
美味しい食事に文句などないけれど、庶民としては外食が度重なるのは気が引ける。
「あの、二人分になったんですよね?健全な家計と食生活の為にも、夕飯も僕が──」
「お前の前世は、働き蟻の中でも本当にあくせく働いている二割の蟻か?」
「……いえ、多分前世も庶民です、人間の」
遮られて尻すぼみになる。ごにょごにょと言うと、優和が威圧的なオーラで言い切った。
「お前は働きたがりすぎだ。家政夫として雇ったんじゃないからな?そこを弁えろ。──ほら、支度」
「……はい……」
どうやら、同居を始めても勇人はドナドナされる宿命に変わりないらしい。
こうして、休日の夕方は和食レストランへ向かい、夜帰宅してからは各々の入浴に明日の準備にと、流れるように時間が経って一日の終わりを時計が告げた。
この夜も、優和が寝室に向かったのは勇人が眠りについてからだった。
優和は見飽きる様子もなく勇人の無邪気な寝顔を眺めて、それから自分も横になった。
* * *
翌日、月曜の朝。優和は早朝から多忙だと聞かされていたので、朝食は作り置き出来るものにしておいた。おにぎりと味噌汁、皮を剥いてカットしたキウイ。あとは苦手でも食べさせたい温野菜のサラダ。
実際、勇人が目を覚ました時には、もう優和の姿がなく、仕事に出てしまっていた。
しかし朝食はきちんと完食してくれていて、その点にほっとする。
──問題は通学だよ、僕の。
勇人は徒歩五分とかからない最寄り駅に行って電車を待った。
そして、いざ電車がホームに滑り込み、恐る恐るグリーン席に着いた瞬間、周りに学生がいない事に愕然とし、グリーン席の待遇にまた愕然とした。
そのグリーン席は通路を挟んで、左右に二席ずつ座席が並んだ、一般車両の特等席と言える。
目的の駅まで、揺れをほとんど感じさせない車両で座っていられるだけでなく、パソコンを出して作業出来るし、コンセントを使用して充電も出来る。
後ろに座っている人がいない場合には、シートを少し倒して、のんびりとくつろいで座れる。
満員電車で押しと揺れに耐えながら立っていた勇人からすれば、境遇の変化はシンデレラにでもなったようなもので、場違い感はあっても快適な事は間違いない。
──優和さん、これを知っててグリーン席に座れって言ってくれたんだ、きっと。
勇人は高校生として学校には通って学ばなければならない。その他に、母の後継者として働けるよう、実地で経験を積む事を求められてきた。
そんな二足のわらじ生活は、前向きに頑張ろうと決めていても、どうしても無理が出て疲れが溜まってしまう。
そこそこ偏差値の高い大学への進学は当たり前だと見なされているので、定期試験は赤点でさえなければいいと許されるものではなく、父親が「健康第一だ」と言ってくれていても、毎日の勉強は怠れない。
そこに、少なくとも週に三回は放課後の仕事で、長時間にわたってメンタルが削られるような魂達を見ながら、勇人にしかない異能を使って大人とやり取りする。
やるべき事をやっていると考えていたから、自然と周りの大人も同調して勇人を仕事人として扱うようになっていた。
──でも、優和さんは違う。休める時に休めと、休む事の出来る環境をくれる。
仕事は報酬を得ているから扱いに異論はないし、プロ意識を持って務めたい決意は揺るがない。
だから関わってきた大人達の態度にも、不満は漏らさないようにしてきたのに、こんな風に甘えさせてくれる大人は父親以外なら優和が初めてで、驚かされたのが本音だ。
甘えさせてもらえる事の、胸に感じるくすぐったさと、包まれるような温かさは、ほんのりと微笑みが浮かぶような、心が満たされる感覚をくれた。
──優和さん、やりすぎですけど……ありがとうございます。
勇人は今夜にでも改めてお礼を言って、感謝を伝えようと思いながら、与えられた休息に目を閉じた。