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勇人は通学電車で休めただろうか。不意に狼狽えていた姿が思い浮かび、からかわれた小動物みたいな反応で面白かったと、微かだが優和の目もとに感情が表れる。
甘える事を知らない子どもの相手をするのも、存外悪くない。それも、勤勉な勇人なら甘ったれには変貌しないと想像がつくからこそ。
──早朝から出社していた優和は、お堅い年寄り相手の会議に出てから、社内の業務をこなしていた。
忙しくて昼食を忘れた事を勇人が知ったら、次は弁当まで用意し始めそうだ。──が、優和からすれば、十分な朝食をとった効果で活力もキープ出来ているので問題はない。
今日は早めに上がって、あいつを食事に連れ出そうと思いつく。色々な店に行ってみれば、何が好物かも分かるだろう。
食べたい物でもいい、何かを欲しがる、ささやかなわがまま程度は許容範囲だ。ぜひとも言えるようになってもらいたい。
「──あれ、機織さん表情が柔らかくなりましたよね。いい事でもあったんですか?」
「表情?鏡は毎日見てるが、自分じゃ特に変化は感じないぞ」
会社の営業部で仕事の話が済んだ後、唐突に指摘されて優和は首を傾げた。
「そういう無自覚っていうか、無頓着なところは変わらないんですけど、ふとした時に優しくなるんですよ」
「優しく、ね……まるで以前の俺が鉄面皮だったみたいだな」
優和本人は自分が女性に塩対応をしている自覚があるので、これは自嘲に近かった。
「そこまでは言いませんよ。──で、誰が鉄の機織さんを変えたんですか?」
「結局、鉄扱いしてるだろうが。……まあ、訳あって知り合った奴がそこそこ気に入って、面倒見てることくらいか?」
誰が、と問われて思いつくのは勇人くらいだ。彼以外に優和の日常を変えたような人物はいない。
正直に答えたつもりだが、相手は納得がいかないのか、更に食い下がってきた。
「それだけですか?何か、肌も容姿もイケメンに磨きがかかってますし、前より健康的に見えますし、実際調子良さそうじゃないですか」
「体調は確かに良いな。そいつが色々考えてくれてるからか?……おい。何だよ、その顔」
「いえ、機織さんって女性には誰が相手でも、嫌な顔を見せずに紳士っぽく振る舞いますけど、特定の誰かの面倒を見たり、誰かから尽くされたりするのは煩わしく思ってそうだとばかり」
優和からすれば、こいつ本当に俺を心まで鉄面皮だと思ってたな、と多少心外には感じるが、現実問題として鉄の男扱いを受けても仕方のない生き方は、それなりにしてきた。
「まあ、確かに俺自身そういうのは煩わしいと思ってはいるけどな……」
「煩わしいのに、顔緩んでますね」
「……うるさい。──あいつは一緒にいて粘着してこないし気楽なんだよ。何だかんだ可愛いところもあるし」
「……それ、めちゃくちゃ惚気けてませんか?いいなあ、俺もそういう相手欲しいですよ」
どうにも、新しく恋人が出来たと勘違いさるているらしい。実際は色めいた事とは縁遠い男子高校生と暮らしているだけなのだが。
なのに、なぜか悪い気はしない。優和は鼻で笑い、自分の心境を冗談にして言い返した。
「もっとうるさくなった。……せいぜい運命の人でも探せ」
──勇人との事が運命的な出逢いなのか、まだ心は決めかねる。男同士の色恋になら、ある程度の理解は示せるが、それが勇人相手に動くかどうか、実感までには至っていない。
それでも、勇人との生活は心身共に充実してゆくような感覚で、こればかりは計算外だった。
「運命なんて目に見えないんですから、探しようがありませんよ」
「誰の目にも見えるものだったら、それはそれで世の中平和じゃないな。まあ頑張れ。──俺はこれで失礼する」
「え?機織さん、接待の予定は入ってませんよね?」
「入ってないからだ」
さらっと言うと、相手も察した。
「本当に羨ましいですよ、機織さんを変える程の器がある人なんて」
誤解は敢えて解かずに、手短な挨拶で会話を終わらせて、歩みは自然とパーキングに向かって早足になっていた。
──明かりの灯る街を走り、閑静な住宅街にある自宅に着くと、リビングのソファーで勇人が居眠りをしている姿が見えた。
いくら眠っても寝足りない年頃だ。気持ち良さそうに寝ているのは、むしろ健やかで良い。
「……今日の依頼は短時間の会合だったか」
優和は勇人を預かる身として、スケジュールも把握している。
「気を張れば後から疲れが出るだろ。……少し休ませてからにするか」
異能者として背負わされた期待は、本人が望んでいるものでもあるからこそ、放棄しろとは思わない。
かと言って、未熟な少年の意欲にかこつけて労力を搾取する、汚い大人の良いようにもさせないつもりだ。
──優和が勇人に向かって、深夜にまで及ぶような仕事を禁じた事により、勇人にはそうした依頼が舞い込む機会は、今後少なくとも大学を卒業するまで一切ない。
──機織家が雇用主となり契約まで結ぶ、という事は、つまりそれだけの影響力を持つ。
勇人がその背景に気づいているかどうか、それはどうでもいい。優和はこの結果に満足しているのだから。
優和は笑みを浮かべて、寝入っている勇人を抱き上げ、壊れ物を扱うようにベッドへ寝かせた。
「……こんな事、女にもやってやらないんだぞ?」
低く控えめな呟きは、微塵の不満も響かせずに、寝室の空気を妖しく様変わりさせた──。