* * *
ある日、学校で後ろの座席の女子が「ねえねえ」と声をかけながら、軽く肩を叩いてきた。
「?──どうかした?」
「無形君、シャンプー変えた?何か最近すごく良い香りする」
「シャンプー?……ええと、一応変えた事になるかな?」
「私ドラストで良さそうなの一通り試したけど、こんな良い香りの使った事ないよ。──触ってみていい?」
「えっ……あの、構わないけど……」
学校で話し慣れない女子に髪を触られる──これは気恥ずかしくて落ち着かない。かといって、これくらいの事で断るのも無愛想で嫌な感じがするので頷いた。
すると、女子は遠慮なく触るだけでなく撫でたり指で梳いたりし始めて、勇人は度肝を抜かれた。
「ありがとー。──わ、柔らかいしサラサラしてるし、めっちゃ指通りちゅるんってしてる。シャントリだけでこんなになる?こんなに良いなら私も使ってみたい。どこのシャントリ使ってるの?」
「ごめん、ボトルのラベルがローマ字でも英語でもないから読めなくて、教えられなくて。髪の手入れに使うものの事には詳しくないんけど、ヘアオイルの効果かな?」
ちなみに、初めて使った時に一滴だけで済ませた事は、すぐにばれてしまい、きちんと適量を使うように申し渡された。
それを思い返していると、女子が耳を疑いたくなる事をさらっと言ってきた。
「ヘアオイル?あれ高いじゃん。ドラストの安いのでも50mlとか70mlで千円超えるし」
「たったそれだけで千円?!」
──庶民の味方ドラッグストアでも、そんなに高いんだ……優和さんのヘアオイル明らかに高級感あるし、多分美容院とかのだから更に高い……。
あくまでも庶民の勇人には衝撃の事実だ。
知らなかったとはいえ、そんな贅沢品を使わせてもらっていたのかと内心は穏やかでいられない。
「ヘアオイル怖い……」
思わず泣き言を口にすると、ようやく髪から手を離した女子が「あははっ」と笑った。
「何かさ、無形君意外なとこあるね。もっと人間苦手かと思ってた」
「や、別に苦手とかないよ?」
「でもさ、クラスの子に話しかけないじゃん。部活も帰宅部っぽいし」
「それは……うん、僕陰キャだから」
「それ、自分で言う?こんな普通に話せてたら陰キャじゃないから」
「え、そうなの?」
「天然かよ、面白いんだね無形君。──あ、シャントリどこのか分かったら教えてね」
「う、うん」
──多分、あのシャンプーも高いんだろうなあ。いやにおしゃれなボトルとラベルだし。ドラッグストアに収まってくれないオーラが漂ってる辺り。でも一応優和さんに訊いてみよう。
自分から積極的に関わろうとはしてこなかったけれど、やはり気兼ねなく話しかけてもらえたのは嬉しい。
そのきっかけを作ってくれたのは、優和が使わせてくれているヘアケア用品だ。これは大袈裟かもしれないが、優和のおかげで嬉しい気持ちになれた事が勇人の心をさらに明るくした。
──この感じ、もうずっと味わってなかった。
異能の仕事を受けるようになってからは、魂の色を見抜く事にばかり気を取られていて、魂を宿す人間そのものとは疎遠になっていた。
──うん、僕は今でも、話そうと思えばクラスの子とも話せるんだ。
それを実感出来て、無意識に人から遠ざかろうとしていた自分を惜しいなと思えて、勇人は何の気なしに当たり前の対話を交わせる事を、大事にしたくなった。
──これも、優和さんとの出逢いがくれたものだ。
そう思うと、胸の辺りが温かくなる。こそばゆい気持ちもあるが、なのに心地良い。
勇人はその温もりを素直に受けとめる事にして、ともすれば一人笑いしそうになるのだけは、変に思われないように堪えた。
放課後になるまで、授業を真面目に受けようと自分に言い聞かせ、教師の話を聞いてノートを几帳面に取る。理由は分からないままに、この日は珍しく時間の進みが遅く感じられた。
チャイムと同時に帰り支度を始めて、真っ直ぐ帰宅する。優和はまだ仕事だろうと思っていたら、先に帰ってきていてコーヒーを淹れていた。
キッチンから、フルーティーでいて香ばしい匂いが届く。前に朝はコーヒーしか口にしないと言っていたし、優和はコーヒーが好きなのかもしれない。
「ただいま帰りました、優和さん」
「おかえり。──何だか嬉しそうだな、学校で良い事でもあったか?」
──たった一瞬で見抜かれるとか、優和さんの観察眼が鋭いのか、僕が顔に出やすすぎるのか……。
おそらく両方だろう。だが、優和がそれだけ勇人を良く見てくれている証でもある。その実感は勇人にとって心を弾ませるものだ。
「はい。席が近い子から話しかけてもらえて。──優和さん、お訊きしたいんですけど、シャンプーとトリートメントのラベルは何て読むんですか?」
「『ミエール』だが、それがどうかしたか?」
「教えてくれて、ありがとうございます。──その子が知りたがってて。髪が手触りも香りもすごく良いからって」
「高校生が小遣いで買うには無理がある値段だと思うぞ?」
「……それは、僕も何となく予想はしてたんですけど、訊かれて教えないのも冷たいかなって」
「……女子か?」
「え?はい」
正直に答えると、優和の顔が無機質に変わった。
──あれ、急に不機嫌そうになった?
その原因は何か思い巡らせて──まさか、と気づく。
──そうだよ、優和さんとは、魂の色が金色だったから同居まで始めたのに。
「いえ、ですけど、単なるクラスメイトですし、会話だって普通のお喋りでしたから……」
「……そうか。まだ高校生だしな、友達付き合いだって必要なのは分かってるから気にするな」
──優和さんは僕の勘違いじゃなければ、気にしてるっぽいけど……。
勇人の不安げな表情を見て取ったらしい優和が、息をついて前髪をかき上げた。
「……本当に。そんな事で束縛する男になるつもりはないんだよ。お前から、俺が狭量な人間だと思われるのは面白くない」
「はい……でも、僕は別に、優和さんの心が狭いとか思いませんけど……」
「俺の意識の問題だ。──ほら、着替えてこい。腹減ってるだろ?飯食いに行くぞ」
「え、……分かりました。すぐに着替えてきますね」
──意識……まさかとは思うけど、優和さん、焼きもちとか……まさかな。
思いつきを打ち消そうとしても、それなら合点が行く。
──いつだって優和さんは余裕を見せている大人で、なのにこうして妬いてくれるとか。
そう思うと、優和が自分を特別視してくれているような……何か変化しつつある関係を実感して、それを心のどこかで喜んでいる。
──嫉妬も独占欲も、優和さんには無縁だとばかり。
気恥しいような落ち着かないような、心が浮き立つような、そんな胸がくすぐったい感覚で満ちるのをおぼえて、勇人は思わず胸もとを手で押さえた。