それからようやく帰宅したが、仕事が午後からだったし、長時間相手になったのもあり、普段ならもう風呂の支度をする時間だった。
──今日の仕事では気疲れしちゃったな……お風呂行くにも気力が足りない……でも、疲れてる夜こそ湯船に浸かって体を労わらないと……。
本音はシャワーだけで簡単に済ませたい。
しかも勇人の場合、状態の悪い魂を見続けていると、邪気にあたって反動が起こるのだ。能力の代償。それは、軽ければ割れるような頭痛で済むが、下手をすれば記憶の欠落を引き起こす。
実際、今まさに頭痛が襲ってきていて、動くのも響いてつらい。
けれど、優和と暮らしている手前、彼にルーズな姿は見せたくないし、今日の疲れを明日に持ち越したくない。
のろのろとバスルームへ向かい、湯張りしている間に着替えを用意し、さらにのろのろと重い足取りで、仕上がった浴槽で体を休めようと鼓舞しながら、リラックス作用のあるラベンダーの入浴剤を選んだ。
優和はまだ仕事があるのか、帰宅していない。
──こんな情けなく疲労困憊した顔を見られたら、優和さんの事だからスパダリ発動するだろうし……。
相変わらずスパダリ認識は健在だ。
まさか優和本人には言えないが、心では思いつつシャワーで体を流して、広い浴槽に張られた湯に身を委ねる。
──生き返る……しみじみ生き返る心地になる……。
足を伸ばして天井を仰ぎ、はあ、と深く息をつく。
いくら面倒だと思っていても、いざ湯船に浸かると心地よくて出たくなくなってくるのが疲れた人間の性だ。
しかし、浸かっている内に意識が途切れたのか、ずるずると寝落ちしてしまったようだ。顔まで浸かってしまい、むせながら慌てて起きる。
──いつの間に寝てたんだろ?頭がくらくらする。
頭に靄がかかっているようで、記憶を手繰り寄せられない。しかし、とにかく湯船から出なければならないのは確かだ。
勇人は重たく感じる体を無理矢理動かして湯船から上がり、脱衣所で座りながら何とかパジャマを着た。
──冷蔵庫に麦茶を作り置きしてあるから、それを……。
魂の邪気のせいで頭痛も相変わらずひどくて、こめかみを押さえても気休めにすらならない。勇人は脳で暴れる頭痛と、のぼせでふらつくのを堪えながらキッチンに向かう。
すると、廊下で帰宅していた優和と行き会った。
「──なかなか風呂から出てこないと思ってたら……どうした?のぼせたか?」
どうやら、勇人がバスルームに入ってから、すぐ後に帰宅したらしい。
「ええと、湯船に浸かっていたと思うんですけど、記憶が飛んでいて、いつの間にか顔まで沈んで……そんなに分かりやすいですか?」
「記憶が飛ぶ?今日は仕事が入ってたよな。それと関係してるのか?」
「……異能には頭痛や記憶障害といったリスクも伴いますから……」
気が抜けているのか、つい余計な事を言ってしまった気がする。
優和は眉をひそめ、次の瞬間、意識を切り替えたのか距離をさらに縮めて勇人に腕を伸ばした。
「そのリスクに関しては、後日改めて詳しく聞かせてもらう。それより今は、顔も耳も真っ赤だ。──ああ、無理して歩こうとするな。少し我慢しろよ」
「えっ……あの!」
優和は軽々と勇人を抱き上げ、リビングのソファーまで連行してゆく。頭痛に見舞われながら湯あたりして頭が働かない勇人であっても、羞恥心と驚きで目を白黒させるはめになった。
優和はお構いなしに勇人をお姫様抱きにして歩き、ソファーにそっとおろして横にならせた。
「あの……」
「休みながら待ってろ、今飲み物を用意してくる」
「……はい……」
優和は言うなり、足早にキッチンへと向かう。
──え、あの、今僕お姫様抱っこされた?
惑乱するものの、頭の片隅で優和の力強い腕を思い出す。頼もしささえ感じさせる腕に抱かれて、大人の男性なんだと改めて実感させられて──湯あたりとは違う意味で鼓動が暴れた。
なぜこんなにも心臓がばくばくするのか。それも明確にならないが、もっと不思議に思ったのは、優和に抱き上げられ、その体に触れた瞬間から波が引くように頭痛が収まりを見せたことだ。
母からは運命の人と出逢えたら手を離すなと教わってきたが、もしかすると精神的な意味合いだけではなく、こうした物理的な意味も持っているのだろうか?
記憶にある母と父の姿は、そう考えると確かに何かと父が母の頭を撫でたり、ソファーで肩を抱き寄せたりとボディタッチが多かった。
──あれだけ痛んでた頭も軽くなってる。これがもし、運命の人に触れられる事で起きたものなら。いや、でも、優和さんの魂は金色だけど本人から認められてないなら確定してる訳でもないんだから。
思わず考え込んでいると、グラスを手にした優和が戻ってきた。
「──待たせたな、飲め」
そうして用意された飲み物は、口にするとレモネードのようでいて風変わりな味わいだった。
フルーティーな酸味に、甘みと塩味も感じる。
「……あの、これは……?」
口にした事のない味だ。
なのに、冷たくて水分が体に沁みてゆく。
「砂糖と塩にレモンを搾って、水と氷で割った。のぼせる程湯船に浸かってたなら、汗で水分や塩分も失われてるしな。美味いかは分からないが体には優しいはずだ」
優和はソファーの傍らに膝をついて目線を揃え、勇人の様子を見守っている。
てっきり、麦茶かペットボトルのスポーツドリンクを渡されると思っていた。
──優和さん、わざわざ作ってくれたんだ……。
「……美味しいです。ありがとうございます」
何より、優和の気遣いが優しくて余計に沁みる。
「ゆっくり飲めよ。体は一度に吸収出来る水分が多くない」
勇人は冷たさが心地良くて、一気に飲み干しそうになったが、優和の言葉に従う事にして少しずつ口に含んだ。
「……はい」
「今夜は早めに休めよ。仕事もあったんだろ?心身を休ませろ」
「……分かりました……」
「飲んだら、また運んでやってもいいが」
「──いえっ、大丈夫です!落ち着いたら自分で寝室まで行けます!」
反射的に即答する。
──のぼせから復活した頭には刺激が強すぎる……。
「そうか?それよりお前、軽すぎるぞ。もっと食って肉を付けろ」
「……あの、はい……」
優和が言うのは筋力だろうか。何にせよ、勇人の健康を考えてくれての事だ。言い返す言葉など考えられない。
「飲んだグラスは片付けておくから、真っ直ぐ寝室へ向かえ」
「あ……ありがとうございます」
勇人は持ち直した体で、言われるままゆっくりと寝室に行って、シーツのさらさらしたベッドに横たわった。
仰向けに寝ると、もうそれだけで疲れが癒されてゆくような心地になる。
──ベッド気持ちいい……。
そうなると、沈むように眠りへと落ちていった。
その眠りの夢で、不思議なものを見た。
夢の中で、優和が佇んでいる。柔らかい金色をまとって。
勇人に気づいたのか、こちらを見て微笑む。その穏やかな笑みは現実離れしていて、なのに懐かしい。
優和が勇人へ手招きする。
迷わず歩み寄って行った。
勇人を待ってくれている優しい笑顔が嬉しくて、夢の中の勇人は心のままに満面の笑みを浮かべ、小走りになった。
そうして、目の前に立ち、二人向き合う。見つめ合う瞳にどきりとしたが、優和の目に吸い込まれそうな程、目が離せない。
それは一瞬だったのだろうか?
どちらからともなく、自然と手を触れ合わせた。
すると、そこから金色の光の粒子が生まれて輝き、夢の世界を満たしていった。
……そこで不意に目を覚ますと、寝室は真っ暗で夜がまだ深いと分かる。
ベッドの中が温かい。顔を横に向けると、勇人には背を向けて寝入っている優和の背中があった。
──広い背中だな……。
まだ夢見心地なせいか、普段なら考えられない事なのに、勇人も横向きになって優和の背中に寄り添った。
先ほどまで見ていた夢の影響も、あったかもしれない。
輝いていた夢は心に余韻を残し──勇人の心に優和への思慕を抱かせる。
幸い、優和が目を覚ます様子もなく、勇人は腕の中のような広くて温かい背中にぴったりとすり寄り、また健やかな眠りについた。あれだけ苦しめられていた頭痛は、跡形もなく消えていた。
その翌日、さっそくリスクや発動条件に関して、洗いざらい話さなければならなくなるとは予想もしていなかったが、その前に静けさの中で穏やかな夜が包んでくれている感覚は、その時の勇人を満たしていた。