* * *
──そろそろ、勇人は眠りに就いただろうか?
いつになくウイスキーをあおりながら、優和は心のモヤと向き合う。
ヘアサロンの帰りに会った少女……バッグも服も靴も、どれもが地下アイドルの収入で買えるものではなかった。
パーティーに行くというのは、おそらく「そういう事」で稼ぎに行っているのだろう。
勇人も、曖昧にでも普通ではないと悟っていたはずだ。
なのに。
──「いえ、可愛かったのでカウントに入れてます」
彼は、純真無垢だった頃の少女を思い、そう言っていた。
それは、彼女に対する救いなのか。もはや慰めにもならない過去なのか。
知る術もないし、赤の他人の事を考えたところで、何の実りもないはずだ。
「……あいつはお人好しすぎるんだ」
その優しさは、諸刃の剣だ。下手をすれば勇人本人を傷つける。
優和は、勇人のともすれば危うい優しさが気に食わない。
いつか、勇人の心をすり減らしかねない優しさが。
薄汚い欲求を抱えた大人の魂を見てきていても、損なわれる事のない──いっそ綺麗なまでの心は美点だが、いつか勇人を傷つけ疲れさせる。
そうした時、誰が勇人の心を守るだろう?
──叶うなら、自分が守りたい。甘やかして蕩けさせるようにしてでも。
世の中は甘くない。だからこそ、せめて自分だけは勇人に甘い蜜をもたらす存在でありたい。
彼が、自分を頼りにする程。
「……俺らしくもない」
勇人の為を思い、勇人の為にならない感情を抱く。
矛盾している自覚はある。
一体、いつからこんな厄介な感情を持つようになったのか。
想いはいつしか優和を動かし蝕み、そこに悦楽と喜びを感じさせるようになっていた。
勇人が優和を慕えば慕う程、肥大してゆく感情。
──これは恋情じゃない。愛なんかじゃない。
言い聞かせても、心は従わない。
「……さすがに呑みすぎたか……」
これ以上は明日に響く。グラスを片付ける事にして、キッチンに向かい、ついでに冷蔵庫を開けて──勇人が作り置きしているローズヒップティーが目についた。
片付けようとしていたグラスに注ぎ、一気に飲み干す。ハイビスカスでまろやかになった酸味が、強いアルコールで麻痺した口内を洗い流すような爽やかさを感じさせる。
それから、今度こそグラスを食洗機に入れて、軽く酩酊した足取りで寝室へと歩いた。
音を立てないように入り、勇人の寝息を確かめる。
薄闇の中、おぼろに見える寝顔は安らかだ。
おぼえるのは安堵と──焦りに似た何か。
──幼児が幼児にぶつけたキスなんて、カウントに入れられてたまるか。
人は愛を乞う獣だと知る優和は、酔いの中で勇人が自分を乞うればいいと思う。
その暗い情念は熾火のように、ちりちりと心に潜んでいる。
──こんなの、全く俺らしくない。
だが、否定しようにも心を焼く火種は消えない。
ゆっくりと勇人の寝顔に顔を近づける。深い眠りなのか、彼が目を覚ます気配はない。
静かな寝息さえかかる程に距離を詰め──我に返る。
──自分は今、何をしようとしていた?
眠る勇人の許しも同意もなく。
顔を離し、一歩退く。
微かな寝息で満ちた寝室は、勇人にとって安らげる平和な空間であり、優和を毒する罪悪の空間になっている。
──今夜は……毛布を出してソファーで寝なければ、自我を保てないかもしれない。
昼間、あんな言葉さえ聞いていなければ。勇人が少女を肯定していなければ。
熾火が微かに心を焼く。侵食する。
優和は身を翻し、振り返る事なく、足音を立てないように寝室から抜け出した。
健やかな眠りに身を委ねる勇人を、気づけぬまま傷つけないように。
心のままに傷つけてはいけない。心のままに守りたい。
彼に気取られぬように。
──いつしか、懐に入れてしまっていた彼を、扱いあぐねて──それでも、このまま信頼されていたいと願う。
巣食う煩悶は、残された理性で押さえつけて。
「……あいつは、あのままでいいんだ」
それが己に課した仕事だからと薄汚れたものを見ながらも、心を腐らせないままの彼で。
だから、自分は勇人を穢れさせない。守るべきものとして、純白の布でくるむようにして、心に抱いてゆく。
その心の真意は、まだ優和自身も理解しかねている。
いや、認めてはいけないと。
……夜は更けてゆき、やがて来る朝を待つ。
朝になれば、勇人は穏やかに笑んでいるだろうと。
夢想しながら、優和はソファーに横たわり頭から毛布を被った。
──それから優和は、浮上しそうな程浅い眠りの中で、繰り返し勇人を夢に見た。
勇人は優和に向かって、声を上げて笑い、むきになって怒り、背を向けて悲しみ、抱きついて離れず、優和を翻弄した。
眠っても休まらない心は、朝を迎え目を覚ました時、頭を重たく痛ませた。
勇人が知れば心配させてしまうだろう。
何でもないふうを装って、勇人の待つリビングに行くと、味噌汁の温かな優しい匂いが届いてきた。
「──おはようございます、優和さん」
「……ああ、おはよう。今朝も早いな」
「そうですか?──今朝のお味噌汁はしじみにしてみました。良い出汁が出てますよ」
「それは美味そうだ」
悪酔いした体にも優しいだろう。まるで先読みされたかのようだ。
──いつもの通りに振る舞えている。
勇人を傷つけない。裏切らない自分でいる事。
勇人に求められるまで、彼に求めさせるまで。
優和の自戒は、彼を縛りつけて苦しめても、勇人の笑顔に何度でも報われる。
「そういえば、優和さん昨夜はどこで寝たんですか?僕が起きた時ベッドにいなかったですけど」
「ああ、仕事が一段落つくのに時間がかかってな。寝過ごさないようにソファーで寝ただけだ」
適当にごまかすと、勇人が不満げに唇を尖らせた。
「そういう疲れた時こそ、ちゃんとベッドで体を休めて下さい」
「これからは、そうするよ」
「疲れが取れるようにベーコンも焼きますから、少し待って下さいね」
「ありがとうな」
くるくると忙しなくキッチンで支度してくれる勇人に、優和は口角を上げて笑みを作った。
勇人もまた、にこやかに応える。
──今は、これでいい。
今は、まだ。