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第23話 Part 優和「この感情はまだ気づかせない」

 * * *



 ──そろそろ、勇人は眠りに就いただろうか?

 いつになくウイスキーをあおりながら、優和は心のモヤと向き合う。

 ヘアサロンの帰りに会った少女……バッグも服も靴も、どれもが地下アイドルの収入で買えるものではなかった。

 パーティーに行くというのは、おそらく「そういう事」で稼ぎに行っているのだろう。

 勇人も、曖昧にでも普通ではないと悟っていたはずだ。

 なのに。

 ──「いえ、可愛かったのでカウントに入れてます」

 彼は、純真無垢だった頃の少女を思い、そう言っていた。

 それは、彼女に対する救いなのか。もはや慰めにもならない過去なのか。

 知る術もないし、赤の他人の事を考えたところで、何の実りもないはずだ。

「……あいつはお人好しすぎるんだ」

 その優しさは、諸刃の剣だ。下手をすれば勇人本人を傷つける。

 優和は、勇人のともすれば危うい優しさが気に食わない。

 いつか、勇人の心をすり減らしかねない優しさが。

 薄汚い欲求を抱えた大人の魂を見てきていても、損なわれる事のない──いっそ綺麗なまでの心は美点だが、いつか勇人を傷つけ疲れさせる。

 そうした時、誰が勇人の心を守るだろう?

 ──叶うなら、自分が守りたい。甘やかして蕩けさせるようにしてでも。

 世の中は甘くない。だからこそ、せめて自分だけは勇人に甘い蜜をもたらす存在でありたい。

 彼が、自分を頼りにする程。

「……俺らしくもない」

 勇人の為を思い、勇人の為にならない感情を抱く。

 矛盾している自覚はある。

 一体、いつからこんな厄介な感情を持つようになったのか。

 想いはいつしか優和を動かし蝕み、そこに悦楽と喜びを感じさせるようになっていた。

 勇人が優和を慕えば慕う程、肥大してゆく感情。

 ──これは恋情じゃない。愛なんかじゃない。

 言い聞かせても、心は従わない。

「……さすがに呑みすぎたか……」

 これ以上は明日に響く。グラスを片付ける事にして、キッチンに向かい、ついでに冷蔵庫を開けて──勇人が作り置きしているローズヒップティーが目についた。

 片付けようとしていたグラスに注ぎ、一気に飲み干す。ハイビスカスでまろやかになった酸味が、強いアルコールで麻痺した口内を洗い流すような爽やかさを感じさせる。

 それから、今度こそグラスを食洗機に入れて、軽く酩酊した足取りで寝室へと歩いた。

 音を立てないように入り、勇人の寝息を確かめる。

 薄闇の中、おぼろに見える寝顔は安らかだ。

 おぼえるのは安堵と──焦りに似た何か。

 ──幼児が幼児にぶつけたキスなんて、カウントに入れられてたまるか。

 人は愛を乞う獣だと知る優和は、酔いの中で勇人が自分を乞うればいいと思う。

 その暗い情念は熾火のように、ちりちりと心に潜んでいる。

 ──こんなの、全く俺らしくない。

 だが、否定しようにも心を焼く火種は消えない。

 ゆっくりと勇人の寝顔に顔を近づける。深い眠りなのか、彼が目を覚ます気配はない。

 静かな寝息さえかかる程に距離を詰め──我に返る。

 ──自分は今、何をしようとしていた?

 眠る勇人の許しも同意もなく。

 顔を離し、一歩退く。

 微かな寝息で満ちた寝室は、勇人にとって安らげる平和な空間であり、優和を毒する罪悪の空間になっている。

 ──今夜は……毛布を出してソファーで寝なければ、自我を保てないかもしれない。

 昼間、あんな言葉さえ聞いていなければ。勇人が少女を肯定していなければ。

 熾火が微かに心を焼く。侵食する。

 優和は身を翻し、振り返る事なく、足音を立てないように寝室から抜け出した。

 健やかな眠りに身を委ねる勇人を、気づけぬまま傷つけないように。

 心のままに傷つけてはいけない。心のままに守りたい。

 彼に気取られぬように。

 ──いつしか、懐に入れてしまっていた彼を、扱いあぐねて──それでも、このまま信頼されていたいと願う。

 巣食う煩悶は、残された理性で押さえつけて。

「……あいつは、あのままでいいんだ」

 それが己に課した仕事だからと薄汚れたものを見ながらも、心を腐らせないままの彼で。

 だから、自分は勇人を穢れさせない。守るべきものとして、純白の布でくるむようにして、心に抱いてゆく。

 その心の真意は、まだ優和自身も理解しかねている。

 いや、認めてはいけないと。

 ……夜は更けてゆき、やがて来る朝を待つ。

 朝になれば、勇人は穏やかに笑んでいるだろうと。

 夢想しながら、優和はソファーに横たわり頭から毛布を被った。

 ──それから優和は、浮上しそうな程浅い眠りの中で、繰り返し勇人を夢に見た。

 勇人は優和に向かって、声を上げて笑い、むきになって怒り、背を向けて悲しみ、抱きついて離れず、優和を翻弄した。

 眠っても休まらない心は、朝を迎え目を覚ました時、頭を重たく痛ませた。

 勇人が知れば心配させてしまうだろう。

 何でもないふうを装って、勇人の待つリビングに行くと、味噌汁の温かな優しい匂いが届いてきた。

「──おはようございます、優和さん」

「……ああ、おはよう。今朝も早いな」

「そうですか?──今朝のお味噌汁はしじみにしてみました。良い出汁が出てますよ」

「それは美味そうだ」

 悪酔いした体にも優しいだろう。まるで先読みされたかのようだ。

 ──いつもの通りに振る舞えている。

 勇人を傷つけない。裏切らない自分でいる事。

 勇人に求められるまで、彼に求めさせるまで。

 優和の自戒は、彼を縛りつけて苦しめても、勇人の笑顔に何度でも報われる。

「そういえば、優和さん昨夜はどこで寝たんですか?僕が起きた時ベッドにいなかったですけど」

「ああ、仕事が一段落つくのに時間がかかってな。寝過ごさないようにソファーで寝ただけだ」

 適当にごまかすと、勇人が不満げに唇を尖らせた。

「そういう疲れた時こそ、ちゃんとベッドで体を休めて下さい」

「これからは、そうするよ」

「疲れが取れるようにベーコンも焼きますから、少し待って下さいね」

「ありがとうな」

 くるくると忙しなくキッチンで支度してくれる勇人に、優和は口角を上げて笑みを作った。

 勇人もまた、にこやかに応える。

 ──今は、これでいい。

 今は、まだ。


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