うららかな風そよぐ、穏やかな気候に恵まれたブリリア王国。
豪奢な西洋式の宮殿では、三代目国王、マルティン・ソフィー・ロッキンベルの生誕祭が行われていた。
国中から集った王侯貴族たちは、贅沢な食事の周りに立ち並び、マルティンを讃える言葉を口にしていた。
――そう、ついさっきまでは。
「イザークッ、貴様っ……裏切ったのか……!」
少ししゃがれた低い声が、静まり返った宮殿内に響く。
その声の出所は、広々とした室内の先頭、階段を上がった先にある王座。
そこに座るべきであるはずの国王は、椅子の前の床に突っ伏していた。
「裏切りではない、元よりお前に近づいたのは、このためだったのだから」
国王の背中を片足で踏みつけ、冷淡に答える男――イザーク・アド・シルベリオス。
彼は国を守り、マルティンに仕える騎士団の団長であった。
従者だと信じ込んでいた者からの反逆に、マルティンは驚愕し狼狽えていた。
どうにか逃れようと手足をジタバタさせるものの、まったくその場から動くことができない。
生誕祭の参加者である王侯貴族たち、そして警備にあたっていた騎士たちは、そんな様子を黙ってじっと見ていた。誰一人として、王を助けようとはしない。
「私腹を肥やす人の皮を被った化け物よ、お前に二つの選択肢を与える」
「せ、選択肢ぃ……?」
マルティンは限界まで首を捻って背後を見ると、自身を見下ろす冷徹な目が視界に入った。
さらりとした黒い前髪の隙間から覗く、金色の瞳が妖しげに光る。
「一つは、俺の指示に従うこと、もう一つは……それを拒否して、今すぐ首を取られることだ」
イザークの台詞に、マルティンは茶色の目を見開き、わなわなと全身を震わせた。
「お、王の私を殺せば、国が混乱に陥るぞ! その隙に他国に攻め落とされたらどうする!?」
「そうなれば我がセレステッタ騎士団がねじ伏せるまで、どのみちお前のような王が治める国、長くは続かんだろうしな」
イザークは腰に携えていた鞘から
途端、マルティンは息を止め、視線だけを下に動かす。
シャンデリアの照明の下、キラリと光る白銀色の
その切っ先が皮膚に食い込みそうになった瞬間、マルティンは慌てて声を上げる。
「わっ、わかった! わかったから剣をしまってくれ! 言う通りにしよう!」
真っ青な顔で必死に命乞いするマルティン。
その姿を見たイザークは、剣をそのままに、自身の要求を口にした。
※※※
波乱の生誕祭から数日後、国王であるマルティンの宮殿には、一人せっせと働く女性がいた。
白いキャスケットのような帽子に髪を収め、フリルのついたエプロンに、黒いワンピースを身に纏っている。
彼女は深い海のような青い瞳を忙しなく動かしながら、広い宮殿内の廊下をホウキで綺麗にしていた。
するとふと、廊下の曲がり角から他の女性がやって来る。かと思うと、彼女は後ろから追いかけてきた女性に、肘を掴まれ振り向いた。
二人とも、青い瞳の彼女と同じ、クラシカルなメイド服を着ている。
「ちょっとアンタ、ここは掃除しなくていいって言われてるでしょ」
「あ、そっか」
二人はチラッと廊下の先にいる彼女を見た。広々とした廊下にポツンと立ったその人は、ホウキを動かす手を止め、遠巻きに二人を眺めていた。
室内は静まり返っているので、彼女たちの声は十分耳に届く。
「かわいそうよねぇ、本当は第二王女なのに……」
「しっ! 滅多なこと言うんじゃないよ、変な噂をして処刑されたメイドもいるんだ、命が惜しけりゃ首を突っ込まないことだよ!」
「そ、そうね、関わらない方が身のためだわ……」
二人はコソコソ話をしながら、素知らぬふりで踵を返す。
ここで長年働いているメイドは、彼女が誰で、どんな経緯でここにいるのか知っている。
しかし、それを口にするのは禁句だ。だから知らんぷりを決めて生活している。
彼女たちが廊下の角を曲がって姿を消すと、一人残された女性は、再びホウキを持つ手を動かし始めた。
怒ったり悲しんだりしている暇はない、彼女にはやるべきことがたくさんあるのだから。
廊下の掃き掃除が終わると、次は窓拭きをするためにバケツと雑巾を持ってくる。
そして窓拭きを始めた時だった。
「ティアナ王女」
名を呼ばれた彼女は、手を止めて振り返る。
すると廊下の前方に、こちらに向かって歩いてくる人物を認めた。
カールした黒髪に口髭、褐色の肌をした彼は、肩から腰の辺りを真っ白な布で覆い、裾が膨らんだ黒いズボンを履いている。
彼を見た瞬間、彼女は柔らかい表情になった。
「シニャール様、おいでだったのですね」
下げた両手を前に揃えながら、身体ごと彼に向き直ってお辞儀をする。
彼女は国王であるマルティンを父に持つ、ブリリア王国第二王女のティアナ・ソフィー・ロッキンベルであった。
それに対するはムアンルド王国の国王、シニャール・サハラ・ストラジャン。四十代の威厳漂うイケオジである。
彼が目の前で足を止めると、ティアナはゆっくりと顔を上げた。
ティアナは小柄なので、長身のシニャールを見上げる形で対面する。
シニャールはエキゾチックな紫の瞳にティアナに映した。
「相変わらずの働きぶりだな、いつもこの広い宮殿内を駆け回っているから、見つけるのに苦労する」
「それは、お手を煩わせて申し訳ありません」
そこで雑巾を持ったままだったことに気づいたティアナは、急いで床に置いたバケツの縁にかけた。
そんなティアナを見ていたシニャールは、太い眉を顰め、複雑な表情を浮かべる。
「……まったく、王女だというのに、メイドと同じ扱いとは、いつまでも納得がいかん」
シニャールの言う通り、ティアナはメイドと同じ……いや、下手をすればそれ以下の扱いを受けている。
この広大な宮殿の廊下すべてを、一人で清掃するよう命じられているのだから。
「いいんです、私、けっこう家事好きですから」
しかしティアナは気にする素振りもなく、ニコッと笑ってみせる。
そんな彼女に、シニャールはあきれたような、感心したような息を漏らした。
「……できればそなたを、うちの第二王子の嫁に欲しかったんだが……カーリンはどうしても、アネッタ王女と結婚したいと言って聞かんでな」
「そんな、私が王子様と結婚だなんて滅相もございません、それに、妹の私が姉を差し置いて嫁ぐわけにもまいりませんので」
ティアナは困ったように笑いながら、小さく首を横に振る。
その言葉には、謙遜以外の気持ちも込められていた。
シニャールは良い人だが、息子もそうとは限らない。そもそも、穏やかな暮らしを望んでいるティアナは、王妃になりたいなど考えたこともなかった。
「それはそうだが……あれは欲深く、なまじ腕が立つゆえ、わしも手を焼いておるんだ、そなたくらい聡明な者が上手く扱ってくれればと思っていたのだが……」
「聡明だなんてそんなっ、買い被りすぎですよ!」
腕を組んで頭を悩ませるシニャールに、ティアナは両手を顔の前に出してバタバタと左右に振る。
ティアナとシニャールの出会いは十年前。
たまたま宮殿内を掃除していたティアナと遭遇したシニャールは、その働きぶりと器量の良さに目を留め話しかけた。
そして会話を重ね人となりを判断した彼は、ブリリア王国に訪れる度、ティアナを探して声をかけるようになった。
そのうちティアナも心を開き、シニャールにだけ自身の境遇を直接話したのだ。もちろん口外しないという約束で。
それ以来、実母を失った今となっては、ティアナを王女と呼び、気にかけてくれるのは、シニャールただ一人。
だからティアナにとって、シニャールの来国はささやかな楽しみだった。
「うーむ、わしが後二十歳若ければ、そなたを放っておかんのだがな」
気難しい顔でなにを言うのかと思いきや、予想外の言葉に、ティアナは小さく吹き出してしまった。
「嫌ですわ、シニャール様ったら、なにをおっしゃるんですか」
口に片手をあて、明るく笑うティアナ。
王族の教育は受けていないというのに、どことなく気品を感じる所作だ。
シニャールはそんな彼女を快く眺め、穏やかなムードが漂う。
しかし、ティアナはふと、あることが引っかかった。
シニャールが言っていた『欲深い』というワード。それが気になり始めると、ティアナの顔から徐々に笑顔が消えた。
「……あの、私のことなんかより、どうかご自身を大切になさってください」
ティアナは真剣な面持ちで、シニャールに告げた。
なぜ、こんなことを言ったのか、ティアナ自身にもよくわからなかった。
しかし、シニャールはティアナの言葉を真摯に受け止めた。
二人とも似たような、漠然とした不穏を感じ取っていたのかもしれない。
「……ありがとう」
シニャールが礼を口にしたところで、人の気配が訪れる。
シニャールが振り向くと、廊下の曲がり角からメイドが一人やって来るのが見えた。
ティアナはシニャール越しに、メイドがこちらに向かってくるのを見ている。
ティアナに用事があるようだと察したシニャールは、視線をティアナに戻した。
「では、わしはそろそろ行くとする、またなティアナ王女、元気で」
「はい、シニャール様、お気をつけてお帰りください」
シニャールは片手を上げて挨拶すると、そのまま前に向かって歩き出した。
ティアナは自身を横切るシニャールに合わせ、身体の向きの変えると、彼の背中にしっかりとお辞儀をした。
長い廊下の先、シニャールの姿が小さくなるごとに、ティアナの背後に気配が近づく。
「国王陛下がお呼びです、速やかに部屋に来るようにと」
ティアナが振り返ると、そこには癖のある短い金髪をしたメイドがいる。機械のように表情が読めない彼女はリリーという名だ。
ティアナはリリーの言葉を聞くと、仕方なく頷いた。
「わかりました、すぐ向かいます」
ああ、まだたくさんやることがあるのに……。
そんなことを考えながら、掃除を中断して歩き始めるティアナ。
シニャールがブリリア王国に訪れるのは半年か一年に一度。
ティアナにとって隣国の友人は、ささやかな楽しみにはなっても、救いにはならなかった。