サイモンはティエリーを助けに来てくれた。
ホテルのドアを蹴り破ってサイモンが入って来たとき、ティエリーは泣きそうになってしまった。
ずっと会いたくてたまらなかった。緊迫した空気の中でもサイモンのフェロモンが香ってきて、ティエリーに大丈夫だと言ってくれているようだった。
サイモンに駆け寄ろうとするティエリーの腕を掴んで男が懐から取り出した銃をティエリーの腹にあてる。ティエリーの方が背が高いので、頭に当てるのは難しかったのだろう。
「このオメガの命が惜しければ、わたしを逃がすのだな」
「このホテルは警察が包囲している。逃げ場はない」
「では、このオメガは死んでもいいというのか?」
冷静に対応するサイモンに対して、男は歪んだ笑みを浮かべていた。
この笑みをティエリーは知っている。
棘付きの鞭でティエリーの背中を打って、苦しむ姿を見ていたときや、ティエリーを手下に犯させて痛みと嫌悪感に苦しむ様子を観察していたときの顔だ。
この男の要求に従ってはいけない。
「サイモン……わたしは、平気です! この男を……」
「おれが平気じゃない! ティエリーに傷一つでもついたら正気でいられない」
撃たれて死ぬのかもしれないが、サイモンが死ぬよりはましだ。サイモンには生きていてほしい。サイモンのことをティエリーはこんなにも愛しているのだから。
平気だというのに、サイモンの方は自分が平気ではないという。ティエリーに傷一つでもついたら正気でいられないなどと言われて、こんな事態なのにサイモンの愛を強く感じる。
「そうか、お前がこのオメガの番か。警察官だと言っていた。こんなに早く居場所を突き止めたのも、何か仕込んでいたんだろう?」
「ティエリー、その男の話は聞かなくていい。後でおれとゆっくり話そう」
サイモンに言われてティエリーは口を挟むのをやめた。サイモンは警察官でこういうときの交渉術も心得ているのだろう。後は全てサイモンに任せた方がいいのかもしれない。
それにしても、男は悪趣味なことを言って来る。
「このオメガが大事なんだよな? 交渉してやってもいい。膝を突いて床に額をこすり付けて命乞いするなら、このオメガを撃たないでおいてやる」
ティエリーを盾にサイモンを脅そうとしているのだ。
床に額をこすり付けてサイモンがティエリーの命乞いをするとは思えなかったけれど、男はにやにやと笑いながらティエリーの脇腹にぐいぐいと銃口を押し付けてくる。引き金を引けば銃弾はティエリーの内臓を傷付けて体内に入るだろう。一発くらいなら耐えられるのではないかと思えば、男は続ける。
「撃てば、おれたちがお前を撃つ」
「残念ながら、このオメガは頑強なんだ。銃弾一発で死ぬとは思えない。何発も死ぬまで銃弾を叩きこまれ続けるのはつらいだろうなぁ。なぁ、ティエリー?」
最悪の相手を敵に回したかもしれない。サイモンとティエリーの苦しむ姿を見てこの男は愉しんでいるのだ。興奮して息が荒くなっているのが分かる。
「銃を捨てて、床に這いつくばれ」
「サイモン、ダメだ」
「悪い、レミ。おれはティエリーに怪我をさせたくない」
レミに止められるが、サイモンは銃を捨てて床に膝を突いた。
アルファはプライドが高いものが多いはずだ。そのプライドを捨てて、サイモンはティエリーのために床に額をこすり付けて命乞いをしようとしている。
そんなのはいけないと口に出そうとしても、脇腹に突きつけられた銃が怖くて声が出ない。
ティエリーが見ている前で、男は更に愉悦の表情でサイモンに告げる。
「床に額をこすり付けろと言っているだろう!」
指示通りにゆっくりと床に額をこすり付けようとしているサイモンに、男は銃口を向けた。
サイモンが撃たれる。
サイモンが死んでしまうかもしれない。
その瞬間、ティエリーの体は反射的に動いていた。
男の肘を思い切り下から殴り上げる。
サイモンに向いていた銃口が天井に向いた途端、レミが素早く男の肩を撃ち抜いた。
男が取り落とした銃を訳も分からぬまま拾って、ティエリーはサイモンに駆け寄っていた。
立ち上がったサイモンが銃を受け取ってくれてティエリーを抱き締めてくれる。
「ティエリー!」
「サイモン……怖かった……。わたし、ひとを殴ったのなんて、初めてで。サイモンが撃たれると思ったら、必死になってしまって……こ、怖かった……」
震えるティエリーの体をサイモンが抱き締めてくれている間に、男は突入した警察官に確保されていた。
その後はジルベルトが来てくれて、ティエリーの証言の間、そばにいてくれることになった。ティエリーはサイモンにそばにいてほしかったが、サイモンには引き続き仕事があるようだったので我慢する。
「証言のためにわたしたちの警察署のある町まで来てもらわないといけないのよ。勤め先に連絡と、荷物を取りに行かなきゃいけないでしょう。わたしが同行するわ」
「それ、サイモンにお願いできませんか?」
「あなたがそれを望むのならば、サイモンは喜んで引き受けてくれると思うわよ」
ジルベルトにお願いして、ティエリーが働いていた町まで送ってもらうのはサイモンに変わってもらった。サイモンは緊張した面持ちでティエリーの方に歩いてきたが、ティエリーが笑顔を見せるとほっとしたように微笑んでくれた。
サイモンのそばにいるとフェロモンを感じられてそれだけでものすごく心地いい。これがなくて一か月もよく離れて生きていられたものだとティエリーは思う。
結局離れて分かったことは、サイモンがいなければティエリーは生きていけないということだけだった。
車の中でティエリーはサイモンにお願いした。
「パン屋の店主とその奥さんにサイモンを紹介させてください」
「いいのか?」
「とてもいい方たちなんです。サイモンのことを紹介させてください」
「いいよ。なんて言えばいい?」
「番で……夫だと言ってもいいですか?」
「もちろん。おれはティエリーの夫だよ」
隠すことも誤魔化すこともなかった。
サイモンはティエリーの危機には即座に駆け付けてくれた。魔法のような速度だったが、それも何か仕掛けがあったのだろう。その仕掛けのおかげでティエリーが助かったのだったら、仕掛けてくれたサイモンにお礼を言いたいくらいだった。
離婚していないので今のところは夫という紹介ができるし、二人で落ち着いて話し合えるようになったらティエリーは愛人としてでもいいのでサイモンのそばに置いてもらおうと考えていた。
離れていた期間、サイモンのことを考えない日はなかった。
サイモンのフェロモンに包まれたら幸福感がすごくて、もう離れることなど考えられなかった。
パン屋の店主とその妻にサイモンを紹介して、店を辞めてサイモンのもとに戻ることを伝えると、サイモンが驚いている。
部屋の荷物も持ってきたときから増えていなかったので、ボストンバッグ一つにきれいに収まった。鍵のかかる引き出しからは一か月分の給料の入った封筒もちゃんと持ち出しておいた。
「いいのか?」
「ダメですか?」
「話し合って、ティエリーはやっぱりおれから離れたいと思うかもしれない」
「そしたら、またここに送ってください。サイモンはそうしてくれるでしょう?」
話し合ってどうしてもだめだったらここに戻ってくればいい。きっと店主もその妻もティエリーを迎え入れてくれる。そんな場所ができただけでも、サイモンと離れていた一か月はつらかったが、無駄ではなかったと思えた。
ティエリーはサイモンとレミの運転する車に乗って、イポリートはジルベルトと交代で運転して、あの男は警察の護送車で送り届けられることになった。
サイモンと住んでいた町に戻るころには日も暮れていて、ティエリーはボストンバッグを持ってサイモンの部屋に泊まることになった。
「おれの部屋でいいのか? ホテルの部屋を取ってもよかったんだが」
「サイモンと話し合わなければいけないでしょう? サイモンの部屋がいいです」
別れ話になっても最後にサイモンとの思い出は欲しい。
ティエリーが望めば、サイモンは拒まなかった。
マンションのサイモンの部屋に行ってボストンバッグを床の上に置いて、ソファに座ると、サイモンが紅茶を入れてくれる。サイモンの両親から結婚祝いにもらったお揃いのティーカップに紅茶を注いで持って来てくれたサイモンに、ティエリーは受け取って、吹き冷まして一口飲む。
「ずっとこの紅茶が恋しかったです」
「恋しかったのは紅茶だけか?」
「この部屋も、サイモンも、ずっと恋しかった」
話をしなければいけないのだが、この場所に戻ってこれたというだけで胸がいっぱいになりそうになるティエリーにサイモンは紅茶を飲まずに夕食を作ってくれた。毎日パンとスープばかり食べていたので、サイモンの作る料理は久しぶりで、どれも美味しく食べていると、サイモンがティエリーに頭を下げた。
「帰ってきてくれないか? ティエリーのことを愛してる。おれに至らないところがあるならどれだけでも努力して直すから、帰ってきてほしい」
「サイモンに至らないところなんてありません。最高の夫です」
「それなら、どうしておれのそばを離れるようなことをしたんだ?」
問われて、ティエリーは正直にすべて話してしまおうと心を決めた。
サイモンとは話し合いが足りていないとジルベルトにも言われた。サイモンが後悔して謝るようなことは一つもないのに、サイモンに謝らせてしまっているこの状況もティエリーにとっては不本意だった。
「サイモンは、女性にしか欲情しないのだと思っていて……」
「はぁ!?」
「ご家族に挨拶をしに行ったときにレイモンに聞いたんです。サイモンの付き合っていた相手は可愛い系の小柄な女性だったと。わたしは男性で、大柄で、可愛くもありません。サイモンの好みではなかったのではないかと思ったのです」
「待って! おれはでかいから、おれと並んだらほとんどの女性は小柄に見えるし、可愛い系って、女性を可愛くないとかいうような奴じゃないから、レイモンは」
待ってと言われて、ティエリーはサイモンの言葉を待つ。
「ティエリーはおれが初めて抱いた男性であることは確かだけど、おれが女性を好きだったかどうかに関しては、それほど確かじゃないんだ。ただ言い寄られた中で面倒がなさそうな相手と付き合ってただけで、積極的に抱きたいとも思わなかったし、適当に付き合ってたから相手から振られることもよくあった」
「わたしを抱いてみて幻滅したんじゃないですか?」
「逆だよ。抱き合うってこんなに素晴らしくて、気持ちよくて、溺れそうになるようなものなのかと思った。ティエリーが好みじゃないなんてありえない。これまで付き合った女性の方が好みじゃなくて、おれの好みはティエリーだ」
断言されてティエリーは顔が熱くなってくるのを感じる。
「好みなんですか?」
「好みじゃなければ、ヒート期間中にあんなに執拗に抱いてない。理性を保つのに必死だったんだからな」
そこまで言われると、ティエリーはヒート期間中以外にサイモンがどうして自分を抱かなかったのか疑問が残る。
「ヒート期間以外は抱いてくれなかったじゃないですか。わたし、抱いてもらえるかと思って、一緒に寝たいと言ったり、バスルームで準備してベッドに入ったりしたのに、サイモンはすぐに眠ってしまいました」
「あれは、ティエリーはおれが求めたら命令みたいになって、拒むことができないだろうと思っていたからだよ。本当は毎日でも抱きたかったし、口付けもしたかった」
好みではないと思っていたのも誤解だった。
ヒート期間以外抱いてくれないと思っていたのも、ティエリーが拒めないと思っていたからだった。
「それなら、ヒート期間以外でも抱いてくれますか?」
「ティエリーが望むのなら」
「シャワーを浴びてきます」
「待って待って待って! 今日はやめておこう? 明日も証言があるからね」
「ダメですか?」
「ダメじゃないけど、なし崩しに関係を持つのはよくない。落ち着いて、ティエリー」
ずっと抱かれていなかったし、すぐにでも抱かれたい気持ちはあったが、今日はダメなようだ。
諦めてティエリーはサイモンに聞く。
「いつならいいですか?」
「証言が終わって、落ち着いてから、ティエリーが抱かれてもいいと思うときに」
「わたしは今からでもいいんですけど」
「ティエリー、君はまだこの部屋に戻ってきたばかりだし、あんな事件があった後だ。冷静になれてないかもしれない。それに、これからおれが話すことを聞いたら、おれが怖くなって逃げ出したくなるかもしれない」
サイモンにもティエリーに話したいことがあるようだ。
紅茶のお代わりを用意してくれてから、サイモンは話し出した。