禍々しい、重くのしかかるような曇天。妖しく光り轟く雷鳴。雨が多い春にだって、いくら何でもこんな嵐はない。
「べ、別な日にしませんか? 今日は天気も悪いし、体調も悪いっていうか」
「……」
薩日内さんに声をかけても無視される。怒っているとかそういうんじゃない。聞いてもらえてないっていうか、聞こえてないっていうか。
僕は仙台駅に戻っていく背中を追いかけるしかなくて、体がついていけるように必死になった。持病か、興奮か、期待かわからない胸の鼓動が口から出てしまわないように口を押さえながらついていく。
要するに吐きそうってことなんだけど、薩日内さんはお構いなし。もう出すもの出しちゃおうかな。非常識って怒られそうだけどさ、もう感情が汚物になって出て来そうなんだよ。
「薩日内さん、本当にやめましょうって」
あぁもうヤバイ。出ちゃう。喉に込み上げる酸味の強い汚物の理由は、恐怖の具現。あの禍々しい空が怖くて仕方がない。
しかもそのきっかけが自分だと自覚がある。そうしたら今まで無縁だった「責任」っていう二文字が初めましてと挨拶をしに来て、かと思ったら圧力かけて僕を責めてくる。
得体の知れない精神に苛められている。もう限界だ。ここが人通りの多い駅内の土産物屋の前だっていい。この責任っていう怪物を吐き出せるならいい。
「ねぇ、薩日内さっ」
無視するなら出してやる。ゲエとえずいた瞬間、上半身が折れ、目の前が真っ暗になった。
そして暖かい甘い匂いがして、口にも生暖かい液体がゆっくりと泥のような粘膜で入り込んでくる。唇に触れる肌のような感覚が感じたことのない鼓動を叩かせた。
吐き気はおさまり、体調も魔法がかかったように楽になっていく。
「聞こえてますよ。でも貴方が望んだことでしょう?」
また目の前が明るくなると、薩日内さんの首が絵の具を塗ったような真っ赤な鮮血で染まっている。じわりじわり、ワイシャツの襟元が赤に支配されていく。
大変だ、何が起きたか知らないけど薩日内さんが死んじゃう。こういう時は止血しなきゃいけないんだ。こんな事くらい僕でもわかる。血が多く出過ぎると“人“は死んでしまう。
でもなんで突然血なんか!
迷わず薩日内さんの首に手を掛けると、血が溢れないように力を入れた。
「殺してくれるんですか?」
「何言ってるんですか! 止血してるんですよ!」
もうずっとパニックだ。頭の中がぐちゃぐちゃで、整理をする余裕もない。
こんな人通りの多いところで血を流したりなんかしたら通報される。どっちが非常識だよ。不老不死を暴いた途端、薩日内さんは本当におかしくなった。殺してくれるんですか? なんて怪しく微笑んで、そんな訳あるはずないのに。
「何やってるんですか!」
聞いたことのある声に首を向けると、体が右へと吹っ飛ばされ、近くにあったコインロッカーが設置されているスペースへと滑り込んでいく。なんだ、今度は。
右肩がロッカーに叩きつけられ、痛いと吐いて摩る。すると首根っこを掴まれて、奥へ奥へと体が引き摺られ。
やっと解放れたと思ったら、目の前に狸がいる。駅の中に突然、狸がいるんだよ。思考は停止、僕は非日常についていけない。
「なんで狸……」
「貴方が望んだからでしょう」
「こんなの望んでない!」
血の止まった薩日内さんは首をパキポキ鳴らし、なんでもないようだ。よかったと安心したのは束の間。
彼女の手にはカッターナイフの刃が見えた。刃先に血が一滴ぶら下がっているのを、僕は見逃さない。そして、さっきから同じセリフばかりな彼女に不信感も覚えた。
「バカにしてますか? 望んでないです。本当に」
僕はムッとした顔で、顔も見ずに言った。
「望みましたよ。普通なら経験しない非日常が欲しいんでしょう? ファンタジー希望なんですよね?」
「こういうんじゃなくて……」
うまく言えないけど、アニメや小説で見るような所謂ご都合主義なファンタジーがいいんだ。こんな身の毛もよだつような、死を連想させるもんじゃない。
って、そんなこと言っても薩日内さんには通じないか。怒られないように周りくどい言い方をしたって無駄だろうし、かといってストレートに言っても駄目。どうせ伝わらないよ。
「ファンタジーだって血は流れますし、人も死にますよ」
真顔で論破したような口調。僕の中で何かが音を立てて切れた。
――わかった。この人とは生死に関する価値観が違う。
せっかく大金払って自分の夢を叶えようとしたのに、これじゃあんまりだ。体を粗末にする人なんかと一緒にいたら僕もどうにかなりそうだし。
体がいくつあっても足りない。それに健康な体を持つ薩日内さんへの嫉妬でどうにかなりそうだ。
死にたがる人はどうしてこうなんだ。努力すれば、環境を変えれば、自分を持てば解決することなんていくらでもあるじゃんか。
生まれつき生きていく機能が不十分で誰よりも死の近くにいた僕の気持ちなんか分かりっこない。
もう彼女のことを探るのはやめよう。いい社会勉強になった。
お金は戻ってこないかも知れないけど、変に期待しないで一般的な道を歩こう。目覚まし料だと思えばいいよね。
これからは伊達家の子孫を自覚して生きていけば、少なからず他の人より変わった人生を送れるはずだ。
「……危ないことはよしてください。体の傷は簡単に治せませんから。せっかくの健康なのに」
僕は筋肉痛になりかけた体をゆっくりと真上にあげ、薩日内さん、提灯小僧、それから狸に会釈してその場を離れた。
さっきまで吐きそうでたまらなかったのに、口の中にドロドロした中かが入ってからは調子が良くなっている。だから帰宅ラッシュに掛かった仙台駅の人の波の中さえスラスラ歩いて行けた。
『どこにいくの?』
後ろからペタペタと聞こえる足音は提灯小僧だ。どうやら僕を追いかけて来たらしい。
「帰るんだよ。疲れたんだ」
『どうして?』
「どうしてって……なんか、不気味だから」
言おうか迷ったけど、それが本音。ツンツンして常識人な薩日内さんはよかった。何か秘密がありそうで、ミステリアスな美人でワクワクした。
けれど今は、命を無駄にする酷い人にしか見えない。殺してくれるんですかって、そんなの健康で体に何一つ不自由がなくて、普通の生活が送れて来た人のセリフ。
いくら薩日内さんが不老不死だからって、そんなのわかりあえない。死にたがりかも知れないと思ってたけど、僕は違うと信じてた。
死にたがる人は嫌いだ。死の怖さを知らない、不気味な化け物だと思う。
帰宅するために市営地下鉄のホームへと急ぐ。周囲の足音が「ザマアミロ」と言っているように聞こえる。夢を無理やり叶えようとすると、報いのごとく絶望が現れる。あっけなく夢は絶たれた。
『可哀想だね』
提灯小僧は何に対してそう言ったのかわからない。僕の心を読んで慰めようとしたのかも知れない。唯一、彼だけが僕の味方なのだと解釈した。
地下鉄のホームには雨のせいで出来た水溜りがそこらじゅうに溜まっていた。