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地下鉄に乗り、自宅の最寄り駅で下車すると、駅のアナウンスは列車の運休を伝え始めていた。
僕が乗って来たのがその日の最終となるようだ。運休の理由は冠水で、滅多に止まらない市営地下鉄も運休を出す程の水量らしい。
確かにホームへ向かう階段やエスカレーターからは滝のように雨水が流れて来ているし、このままで身の危険があると言ってもおかしくない。
『お家は近いの?』と提灯小僧が訊ねてくる。
「10分くらいかな。川沿いなんだ」
地上へ上がる階段も雨水のせいで思うようには上がれなくなっていた。
手すりを使わないと足が頼りないし、体の弱い僕は尚更の事。背中を提灯小僧が支えてくれるから良かったけど、体がふらふらする。
少しでも気を抜けば下に流されて行きそうだ。
やっとのことで地上へ上がれば、次はけたたましいサイレンの音と雷鳴が街を支配している。
風も強く、あたりには人が歩いていない。台風より酷い有様に、僕は夢中で自宅を目指した。
『こちらは、仙台市です――広瀬川――避難――くだ――い』
防災無線から聞こえるアナウンスも、暴風と雨音が邪魔をしてハッキリと聞こえない。聴覚もだけど、視覚だって上手く働かない。腕で顔を覆って隙間を作り、先へ進める様に前へ進む。
亀より鈍い、僕の足。水が生き物みたいに足に絡みついている。それは冷たくて、爪先の感覚はあまりなくなって来た。
兎に角歩みを進めていると、後ろから車のクラクションが何度も鳴り、まさかと思い振り返った。やがて僕の近くへノロノロと近づいて止まる。
雨が強いせいで誰かわからなかったが、運転席から降りて来たのは男性で、その人は僕の名前を何度も呼んだ。
「衛宗! 探したんだ、行くぞ!」
雨粒で視界の悪い中、近づく影の主を声でやっと気付く事が出来た。
「兄さん?」
「早く!」
手首を引かれ車に乗せられる。車は家とは真逆の方向を向いている。行くとか早くとか、怒り口調で言うもんだから、何処に連れて行かれるのもわからないのは嫌だった。
「ねえ、一度家に帰るよ」
自宅の方向を指さすと兄は「ばかたれ」と一発叩いてきて、無理やり助手席に僕を押し込めた。提灯小僧も左腕にがっしりと手足を巻きつけて付いてくる。
兄はアクセルを踏むと、広瀬川からぐんぐんと遠のいていく。タイヤが回るたびに道路に溜まる水が飛沫になって視界を奪い、ただ事ではないのを思い知らせてくる。
「広瀬川が決壊するかもしれない。そしたらここ一帯は川も同然になるんだ!」
「え――じゃあ家は?」
川が決壊した時、川沿いの自宅はどうなるのか。最悪の事態を考えれば分かる事。水浸しぐらいになっていればまだマシかもしれない。濁流で流されてしまえば、僕ら家族は生活する事が出来なくなる。
想像すると恐ろしくてたまらない。せっかく退院して戻れた我が家。それを失うなんて絶対に嫌だ。
後ろを向き、目に映すのが最後かもしれない建物達を置いて行く。罪悪感が胸の辺りでもやもやと渦巻いているのは、自分の無力さを嫌と言う程感じているからだ。
「こんな状況なら命がありゃいい。衛宗が1番わかってる事だろ」
「……うん」
兄は内心は慌てているに違いないのに、冷静に僕を諭す。
他の家族も避難済。兄は出掛けた僕を探して仙台駅に周辺を車で走り回っていたらしい。
外にいたのに何故この非常事態に気づかなかったんだと怒られ、僕は不貞腐れて悪態を突こうと思った。
だって……言いそうではあったけど、探してもらった手前もあるので口を結ぶ。
如何にも申し訳なさそうな口ぶりで謝ると、兄は鼻で深い息を吐いた。
「退院して遊びたい気持ちもわかる――が、周りで何が起きてるか常にアンテナは張っとけよ」
しっかり者の兄の言う事はいつだって正しいよ。でも面白くない。その身についた常識が羨ましいんだよ。わかっちゃもらえないだろうけどさ。
兄は何も知らない僕に今起きている事を説明してくれた。
昨晩から続いていた雨が突然バケツをひっくり返したように降り出して、それからさらに強くなり、雷が休まず鳴り続けていたようだ。
テレビでも、過去にない記録的な雨量だとして緊急避難を呼びかけていて、すぐに避難が始まったらしい。避難が始まった時間帯を聞くと、ちょうど薩日内さんと仙台駅で揉めている頃だったから、気づく訳もなかったり
街の中心地付近、ケヤキ並木の道路に入ると、道は混雑してなかなか進まない。
この道は定禅寺通りと言って、秋にはジャズフェスなんていうお洒落なイベントが行われたりする通りだというけど、今は人が1人も居ない。
きっと川から逃げる為に皆車を利用してるんだ。川へ向かう反対車線はガラガラで、走る車はない。
車内に流れるラジオでも、仙台市中心部の道路は大渋滞してなかなか動きを見せないと、その時が迫っているのにこれは不味いと焦る様な口振り。
そんな事を聞いたら、そのうち我慢が出来なくなり、反対車線を逆走する人も居そうだ。
なんて思っていると、やっぱりいる。僕の心を読んだラジオも掻き消す雨音の中に、爆発しながら走るようなオートバイのエンジン音がした。
反対車線に目をやると、ビュンと水なんか関係ない様に走る朱色のオートバイが広瀬川の方へと向かう。
「バカだな、こんな時に! 死にたがりか」
「さっきまでお前も同じだったろうが」
「僕は状況を知らなかっただけだよ」
そうさ。僕は状況を知らなかっただけで、死にたかった訳じゃない。命の危険があるなら必ず逃げてやる。
頭にチラつく、薩日内さんの「殺してくれるんですか?」という言葉と微笑んだ顔。
死ぬのは怖い。それを知らない人なんかと一緒にされたくない。兄の言葉には機嫌を悪くさせられるだけだから、もう外だけを見て会話しないことにした。
助手席側の窓に顔を向けた時、提灯小僧が僕の袖を優しく引っ張って『今の……』と何か言いかけた。
でも僕は何も聞こえないふりをして緘黙し、薩日内さんへの怒りを心の中でぐつぐつと煮えたたせていた。
死にたがり程恵まれていたりする。彼女はそれを知らないんだもの。