次の日の放課後、僕と影山さんは誰もいない2年1組の教室で、キミコさんの出現を待っていた。
ちなみに服部さんは今日も帰ってしまった。今日は男女数人のグループでボーリングに行くらしい。
「……全然、出てこねーじゃねーかよ……」
影山さんがぼそりと言った。
そんなこと言われたって、キミコさんの都合なんて僕が知るはずもない。一昨日はこの教室で服部さんとイチャついてたら、突然現れたんだ。
僕は窓の外を見た。
灰色の空から降り続ける雪は、白をまた別の白で塗り替える。そんな生まれ変わりを繰り返しながら、この町の冬は細々と生き続けている。
暖房が消えた教室は、少し肌寒かった。
「――あ、そう言うことか」
僕はキミコさんの性質を思い出して、隣に立つ影山さんの手を握った。
「は!? なに!? てめーいきなりなにすんだよ!?」
影山さんはその手を振り解く。
「ほら、キミコさんは『イチャつく男女』の前に現れるんだ。だからこーやって恋人同士みたいにカモフラージュしとけば、現れるんじゃないかって……」
「ここここここここ恋人って……!」影山さんの声が震えている。「ならそう言ってからやれよ!! び、び、びっくりするだろーが!!」
「ごめんごめん。ていうか影山さん、そんな大きい声出るんだね」
「……うるせーよ、クソが……」
気を取り直して、僕は再び影山さんの手を握る。
陰湿で幽霊みたいな風貌とは裏腹に、その手はやわらかく、温かかった。
その温かさに気付いた時、僕もなんだか気恥ずかしい感情が、炭酸の泡みたいにじゅわじゅわと湧き上がってくる。
その気持ちに栓をして、冷静を装いながら影山さんの顔を――
あ、いた。
『それ』は音もなくそこにいた。
僕と影山さんの間に立つようにして、朧げな女が立っていた。
キミコさん――
その女は、ゆっくりとこちらに顔を向ける。
真っ白な肌。
降り積もった雪のように白い。
しかし、無粋な足跡のような痛々しい傷が、口の端から耳までを繋いでいた。
その口を開けて彼女は笑う。
真っ黒な闇がのぞいている。
僕は恐怖で動けなかった。ただ影山さんの手の感覚だけを頼りに、なんとかこの場所に意識を止めている。
「……てめーが、キミコか……?」
呟くような影山さんの声が、しんとした教室に響いた。
繋いだ左手が強引に引かれ、僕はバランスを崩しそうになる。
キミコさんと向き合った影山さんは「ははっ……」と見下すように笑った。
キミコさんの笑い顔が引き攣り、怒りに満ちる。そして、その恐ろしい形相のまま、僕の隣に立つ影山さんを睨みつけた。
妬ましい……
妬ましい……
どす黒い思念が脳内を埋め尽し、キミコさんの抱えた悲劇や、不幸や、憎しみが、濁流のように流れ込んでくる。
そして、蛇のような黒い思念体が彼女の背中から伸び、こちらに向かって首をもたげ、口を開けた。
服部さんが呪われた時と同じだ。
叫びたいのに、恐怖で喉が締め付けられ、声が出ない……。
しかし――
「……あぁ? リア充の分際で調子こいてんじゃねーぞ……?」
黒い思念体が、影山さんに噛みつこうとしたその瞬間、彼女は啖呵を切った。
「……こちとら生まれてこの方、恋人どころか友達だって出来たことねーんだぞ……?」
キミコさんの思念体がすんでのところで止まった。
睨み合う二人。
死者の陰キャと、生者の陰キャ。
そして僕は、この二人の間に生まれた領域に、踏み込むことが出来ない。
「……てめー、死ぬまではたいそう充実してたらしいじゃねーか……。親に愛されて、友達もたくさんいて、カレシだって取っ替え引っ替えで……チッ!」
舌打ちをして、影山さんは続ける。
「てめーの両親、今でも月命日には墓前に花を飾ってるらしいぜ? 悪霊の分際で、いいご身分だな……。それで何が『妬ましい』だよ……」
影山さんの背中から、キミコさんと同じような黒い思念体が湧き出てくる。
それは白髪を振り乱した鬼の姿となり、咆哮を上げた……ように見えた。
「か、影山さん、キミコさんに詳しいね……」
領域から蚊帳の外にされた事で、やっと声が出る。
「リサーチしたんだよ……。ダーク・ウェブでな……」
「ダーク・ウェブ?」
「そう……8ちゃんねるっていうんだよ……」
それは民度が低いことで有名な匿名掲示板だった。
「てめー、顔を怪我して男から相手にされなくなったって悲観してたらしいじゃねーか……。でもな、そんなお前の事を、幼馴染の……サトシくんって野郎は、ずっとてめーを想い続けてたんだぜ……?」
上目遣いで影山さんを睨みつけていたキミコさんだったが、サトシくんの一言ではっと顔を上げた。
「気づかなかったのか……? でめーは、少女マンガの鈍感ヒロインかよ……。そいつは今でも、お前の墓に手を合わせてるらしいぜ!? このクソリア充がよっ!」
影山さんの背後に立つ思念の鬼が、蛇のように蠢くキミコさんの思念体を握りつぶす。蛇はのたうちその手から逃れようとするが、鬼は決して離さない。
「あたしの名前はなぁ! 女なのに蕪太郎なんだよ! クソ親父がカブの漬物を食ってた時に生まれたらしいからな! 笑えるだろ!? あたしは生まれた瞬間からそんな扱いさ! 温室育ちのてめぇとは、闇の深みが違うんだよ!!」
影山さんの叫び声と呼応するように、鬼もまた咆哮を上げる。そしてキミコさんの蛇を両手で掴み、引きちぎった。
暴れ回る蛇は大口を開け天を仰ぐ。
キミコさんも両手で肩を抱えて俯き、痙攣するように何度も震える。そして顔を上げた瞬間、口から大量の黒い液体を滝のように吐き出した。
「……ほら、あたしからしてみりゃ、てめーの闇なんざ間接照明レベルなんだよ……」
影山さんが顔にかかったボサボサの黒髪を掻き上げる。
「てめーは陽キャさ。ただ……致命的に鈍感だった。それだけの事さ……」
吐瀉物を流し切ったキミコさんは、狂った『悪霊の目』ではなく、うつろだけど理性を感じさせる『人間の目』で、僕と影山さんを見た。
――私、気づかなかった……。
体がどんどん崩れていく。
――醜くなってしまった私の事を、愛してくれた人がいたなんて……。
それは白い光の粒となり、教室の窓を通り抜けて、天へと昇っていく。
灰色の校舎に降り積もる雪と、灰色の空へと昇っていく光の粒――
交差する二つの白は、まるで逆さまの世界が交わるような、あるいはあの世とこの世が混ざり合うような、とても奇妙で美しい光景だった。
「成仏、したのかな?」
天に消えていくキミコさんを見ながら、僕は影山さんに尋ねる。
「……しらねーよ……」影山さんは溜め息を吐く。「でも、自分が幸せだったって事を、思い出したんだ……。未練がましく、この世に留まったりはしねーんじゃねーか……?」
口は悪いけど、彼女なりの優しさがこもった言葉のような気がした。
僕は影山さんを見る。
顔にかる前髪を掻き上げた影山さんは、先程までの妖怪じみた雰囲気は薄れていた。なんだか、ただの少しオシャレに疎いだけの、普通の中学生の女の子に見えた。
ていうか、けっこうかわいいかもしれない。
「あ、あああ!? 何見てんだよクソが!」
「ううん、別に」
さっき思った事は、言わないでおこう。言ったらきっと、僕は照れ隠しで殺されるかもしれないから。
* * *
キミコさんの一件から二週間が経った。
あれから服部さんには何の不幸もない。本当にキミコさんは成仏して、呪いは解除されたのだろう。
服部さんには一言「ありがと」と言われたが、それっきり完全にフラれてしまった。男女でボーリングに行った時に、僕よりも条件のいい男子と知り合って、すぐに交際に発展したらしい。
そりゃ、多少はムカつきもした。でも悲しさは全くなかった。
服部さんの性格の悪さを知ったから、ってのもあるし、それに――
放課後、僕は8組の教室に向かう。ドアを開けると、窓際の一番後ろの席に、ボサボサの髪の悪霊みたいな女子が座っている。
「……ああ? 何しに来たんだよ……?」
耳を澄ませないと聞こえない、小さく掠れた声。
僕は彼女の隣に座り「別にいいじゃん」と言って窓の外を見た。
この街の冬は日照時間がとても短い。
空はいつだって灰色で、積もった雪を雨が溶かし、その
僕の恋もまた、新しい何かで染め替えられた。それが雪なのか、みぞれなのか、雨なのかは、今の僕にはわからないけど。
「前髪、上げればいいのに」
「……うるせーよ、汚物を晒さないための、あたしなりの配慮だろーが……」
「そんな事ないし……」
「ああ……?」
「いや、何でもない」
悪霊さえも裸足で逃げ出す、最強の陰キャ『影山さん』。でも誰かの一言で、もしかしたら彼女は
だったら、もう少しこのままで。
暖房の消えた教室で、吐息で手を温めながら、僕は一人で頷くのだった。