影山さんの化身である銀髪の鬼は、左手で悪霊『赤塚さん』の首を掴み、再び右の拳を振り下ろそうと構える。
しかし――
『おまえも、このおんなにぬすまれただろ!? おまえの、きになるおとこ――』
「あああああああ! うっせええええ! そんなんじゃねええええええ!」
なんだかわからないけど、真っ赤になって狼狽する影山さん。その隙をついて、赤塚さんは鬼は指をすり抜けた。
ヤバい!!
悪霊が向かう先には松原さん。
土手に鎮座した大きな石の前に屈み込んでいる。
僕は再び駆け出そうとしたけど、間に合わない。
逃げて!!
足がもつれそうになりながらも懸命に手を伸ばし、そのまま無様にすっ転ぶ。
顔面を覆う、湿ったアスファルトの匂い。
そして松原さんの悲鳴が――
聞こえなかった。
うつ伏せの僕は、恐る恐る顔を上げる。
松原さんを目の前にしながら、赤塚さんは右手を振り上げたまま動きを止めていた。そして、目の前に掲げられたピンク色の何かを見つめている。
細長い、ペンみたいな形の何かだ。
ゆらゆらと揺れる赤塚さんの後ろ姿に、驚きと戸惑いの感情が見え隠れする。
『それは……』
呼吸を忘れていた事に気付いたみたいな、溜め息のような声で赤塚さんは尋ねる。
「これ、赤塚さんの大事なものでしょ?」
『わたしの、だいじなもの……』
「いつもマンガに使っていたペンだよ。きっと事故にあった時、ここに飛ばされて、忘れられていたんだよ」
歯をガチガチと鳴らしながら、それでも気丈な笑みを浮かべて、松原さんが言う。
『なんで、それがわたしのぺんだって、しってるんだ……?』
赤塚さんは、振り上げてい右手を下ろし、呆然とした様子でピンク色のペンを眺めた。
かつてのクラスメイトから投げかけられた疑問に、松原さんは俯き、重たい息を何度も吐き出しながら、痛みに耐えるような声で言った。
「だって、私ずっと見てたもん……」
そして松原さんは鼻を啜った。気が付けば、その目には涙が溜まっている。
「わたし、赤塚さんと友達になりたくて、ずっと見てたもん! このペンですごく綺麗な絵を描いてるの、ずっとずっと見てたもん!」
ギリギリで耐えていた笑顔が、崩壊する。
「それなのに、赤塚さんひどいよ……。なんでいつも私の事を睨むの? なんで殺そうとするの!? 私はずっと、友達になりたかっただけなのに!」
『うそだ! ずっと、みじめなわたしをばかにして――』
「バカにするわけないじゃん! 私は赤塚さんみたいにきれいな絵を描けないもん! 赤塚さんはすごいんだよ!? だから、すごくかっこいいなって、ステキだな――そう思ってたんだよ!?」
『ちがう――』
「違わないよ! 赤塚さんに私のなにがわかるの!? 赤塚さんが死んじゃって、私すごく悲しかったんだからね!? そんなことだって知らないくせに!」
唾を飛ばして叫び散らかす松原さん。
その姿はがむしゃらで、みっともなくて、いつも明るい笑顔で周りを元気づけている彼女とは、程遠いものだった。
でも僕は、この場に立って初めて気付いた。
彼女もただの中学2年生なんだ。
大人びていても、陽キャだとしても、僕たちと同じで、まだまだ未熟で不安定な子供なんだ。
「陽キャって輩は……本当にうぜえよな……」
そのやり取りを聞いていた影山さんが、うざったそうに前髪をかきあげた。黒髪で隠れた大きくて鋭い目が露わになる。
「奴らは、『みんな仲良く』が絶対的な正義だと信じ込んでやがる……。そして、その大義名分を後ろ盾にすりゃ、勝手に他人のテリトリーに踏み込む事だって、正しい事だと決め付ける……。本当にクソだ。そう思うだろ? 赤塚章子……」
両手を垂らし、困惑した様子で、号泣する少女を見つめる赤塚さん。そんな彼女に、影山さんは言う。
「そういう輩ってのは、偽善くせぇ笑顔の裏で、きっと他人を見下して笑ってるんだよ……。そんなお前の主張は、おおむね正しいと思うぜ……?」
影山さん、なにを言ってるんだよ!
語りに割って入ろうとする僕を、彼女は横目で見た。その目がすごく優しく見えたから、僕は言いかけた言葉を飲み込む。
「でもな――」
影山さんは俯き、照れたように頬を掻く。
「残念ながら――見ての通り、この『松原ニコリ』って女は、どっかイカれてやがるんだ……。偽善くせえ笑顔の裏には、何もねぇ……。友達になりたいって感情以外に、どうやらマジで何もねぇんだよ……」
そう言って自嘲気味に笑った。
『わたしは、まちがってたの……?』
声のトーンを落として、血だらけの少女の霊が振り向く。その目には、ゆっくりと歩み寄る影山さんの姿が映っているんだろう。
「正しいか間違ってるかなんて、しらねーよ。生きてる時に感じたお前の気持ちは、お前のもんだ……。それを他人が、正しかったか、間違ってたかなんて、言えるわけねーだろ……」
影山さんの言葉は冷たい。
でも、彼女が過去に感じた絶望を『勘違いだった』って否定してしまったら……、それは自責と後悔の念となって、彼女をより深い闇へと叩き落としてしまうかもしれない。
だからきっと、影山さんは「しらねーよ」とそっぽを向くんだ。
「とはいえ、てめえは調子こいて暴れすぎなんだよ……。陰キャの癇癪ほど、みっともないもんはねーんだ……」
銀髪の鬼が片手を振り上げーー
「本来いるべき世界で、おとなしくマンガでも描いてる方が、てめえには似合ってる……」
優しく赤塚さんの背中を撫でる。
その瞬間、赤塚さんの身体が弾けた。そして光の粒へと姿を変え、夜空へと昇っていく。
僕は消えゆく光を眺めながらも、横目でちらりと松原さんを見る。涙で濡れたその瞳はに、光の粒が反射していた。
星のない空に、いくつもの光が吸い込まれていく。
まるで星が夜空に還るかのように。
「影山さん、私……間違ってたのかな?」
夜空を見上げながら松原さんが呟いた。
影山さんも同じように夜空を見ながら、その静けさを確かめるように、言った。
「……しらねーよ」
* * *
赤塚さんは松原さんを憎んでいて、その憎しみを晴らすために彼女を待っていた。
たしかに表向きは、そうなのかもしれない。
でも僕は思うんだ。
赤塚さんは心のどこかで、自分の大事なものを見つけて欲しかったんじゃないか……って。
そして、それを見つけられるのは、自分の事をいつも気にかけていた松原さんしかいない、そう感じてなんじゃないだろうか……って。
本当のことはわからない。
でも、そんな天邪鬼で、ひねくれていて、でもちょっとだけ温かな裏話があったって、いいんじゃないだろうか。
だって僕たちはまだ、未熟で不安定な子供なのだから。
* * *
寒いと思ったら雪が降り出した。
この町の空は、すぐに泣き出すから困る。
涙を拭った松原さんは、手の中のペンを指先で撫でている。こびり付いた土汚れが取り除かれて、思い出が少しでも輝くように――
きゅるるる……
急に、何かが鳴いた。
可愛らしい小動物のようなその鳴き声に、僕はついつい目を細めて、うっとりとした溜め息を吐く。なに今の、子ネコ? 子犬? 子フクロウ? めっちゃかわいい声……
ふやけた顔のまま松原さんを見ると、真っ赤な顔でお腹を押さえている。
あれ?
今のって、松原さんの?
「ごめん、お腹すいちゃったみたい」
かわいい松原さんは、腹の音もかわいいらしい。
「そろそろ帰ろっか。バス停の近くにコンビニがあったから、唐揚げ棒でも買おうよ」
松原さんの恥ずかしさを誤魔化すように僕は言う。
「そうだね、私は肉まんにしようかな」
「おい……そんな悠長なこといってられねーぜ……?」
影山さんが腕時計を見る。
あわてて僕も時計を確認する。あ、バスの時間がヤバい。
田舎のバスは1〜2時間に1本しかない。ましてや日も沈みきっているこの時間帯は、次のバスを逃したら何時に帰れる事やら……。
「さっさといくぞ……スケコマシ、陽キャ……」
すぐに踵を返す影山さん。
「影山さん!」
そして、それを呼び止める松原さん。
「ああ……?」
振り返った影山さんが苛立たしげに唸る。
「私の名前、知ってるよね?」
松原さんが尋ねる。
「しらね……」
影山さんは興味なさげに適当な返事をする。
「
「あっそ……」
「私の事は、陽キャじゃなくて……ニコリってよんでよ」
松原さんに笑顔が戻っている。
でも、上目遣いに影山さんを見るその表情は、どこか緊張しているようにも見える。
「やだよ……さっさといくぞ」
それを無視して数歩進んだ影山さんは、立ち止まり、振り返る。
松原さんはとぼけた表情で、そっぽを向いている。
どうやら動く気はないらしい。
「おい、陽キャ……?」
「……」
「くっそ……松原、サン……?」
「……」
影山さんが舌打ちする。
そして松原さんに背を向けると、海風にかき消されそうなほどか細い声で、言った。
「帰ろう……ニコリ……」
松原さんのぎこちない笑顔が、破顔する。
「うん! 今日はありがとう、
顔を真っ赤にしてスタスタ歩く影山さん。
その後ろをピョコピョコついていく松原さん。
そして僕は、そんな2人の様子を眺めながら、なんでか知らないけど自然と笑顔がこぼれていた。
そう、これはあれだ――気難しい野良ネコと、天真爛漫な小型犬が、夜の海沿いを仲良く散歩してる絵面だ。