俺は閉じ込められている。
この軟弱で強固な檻の中に――
* * *
風呂に入ると、僕はまず頭を洗う。
お湯でしっかり汚れを流し落としてから、お父さんの使っているスカルプ系のシャンプーをしっかり泡立てて、マッサージするみたいに頭皮を優しく揉みほぐす。
今日も1日頑張った――
いろんな場面で染み出してきたいろんな汗が、白く清潔な泡に吸い込まれ、シャワーのお湯と一緒に消えていく。
顔を洗い、体を洗う。
全身をスッキリとリフレッシュさせたら、39℃で保温されたお湯に体を沈める。
天井を仰いで、今日あった出来事を思い出し、空想に浸る。
僕にとって1日で一番大切な時間だ。
風呂上がりのほてった身体を冷まそうと、上半身は肌着だけで居間をウロウロしていると、テレビを見ていた妹の
3年生になってからは、なんだかオトナの真似事をして、僕の事を『ウザい』とか『ムカつく』とか言うようになった妹。
眉の上で切り揃えた前髪は、今でも幼稚園生のガキンチョみたいに見える。
去年まではお兄ちゃんお兄ちゃんって、僕の後ろを着いて回ってたのに……そんな寂しさを感じながらも、これが大人になるって事なんだろうな、なんて自分を納得させようとする僕。
こんなふうに、妹の生意気を広い心で受け止めてやれる僕の方が、きっと何倍も大人なんだけどね。愛菜も真の大人になれば、こんな僕の気持ちもわかるはずだよ。
「ねぇ……」
テレビに視線を向けながら愛菜が言う。
「ん?」
冷蔵庫から取り出したサイダーをコップに注ぎながら僕は応える。どうせ、肌着で歩き回らないでキモい、とか言われるに違いない。
でも、こっちを見た妹の顔は恐怖で引き攣っていた。
思えば、今日は帰ってから元気がない。夕食だって愛菜の大好きなハンバーグだったのに、半分も残していた。
「おにいが小学校の時……『妖怪かまいたち』の噂って、あった?」
妹の口から出た予想外の言葉に面食らう。
「いや、聞いた事ないけど……」
当然僕も愛菜と同じ小学校出身だったし、よくある『学校の七不思議』みたいなのも聞いたことあるけど、『かまいたち』の噂なんて聞いたことない。
かまいたちって、人を転ばせて斬りつける、イタチの妖怪だって漫画で読んだ事あるけど――
愛菜はクッションに顔を埋めて、トイレを我慢してるみたいにモジモジと身体を揺する。そして苦手なピーマンに箸をつける時のような不安気な表情で、学校で起きた出来事をポツポツと語り出した。
愛菜の話はざっとこんな感じだった。
昨日の放課後、教室に残っていた2年生の男の子が妖怪に襲われた。何かの気配を感じて後ろを振り返ると、鋭い鎌を構えた妖怪が立ってたんだって。
呆気に取られていた男の子は、振り下ろされた鎌で右腕に怪我をしてしまった。それは病院に行って手当してもらわなくちゃならないレベルの怪我だった。
男の子は死に物狂いで職員室に駆け込んで、なんとか命は助かったけど……もう一度振り下ろされてたら、死んでたかもしれない。
愛菜は全身を震わせる。そして「怖くて、学校に行きたくない……」と呟いた。
妖怪ではなく変質者なんかじゃないのか? それだって十分怖いけどさ……。そう僕が言うと、愛菜は首を振った。なんでも監視カメラとか色々調べたけど、怪しい人物が校舎に侵入した形跡はなかったらしい。
ちょうどその教室には、図工の時間にみんなが廃材で作った工作が並べられていた。だから男の子は、材料のガラスや金属部分のとんがった部分に引っかかって怪我したんだろう。先生たちはそう結論づけたみたいだった。
たしかに、2年生の男の子が『妖怪かまいたちにやられたんだ!』って訴えたって、大人がそれを信じるわけがない。
そう、普通の大人なら。
「どうせ、おにいも信じてないんでしょ……」
そっぽを向いて、面白くもないNHKのニュース番組をぼんやり眺めながら、愛菜は口を尖らせる。
「ううん。僕は信じる」
そんな愛菜の、赤ちゃんの頃と変わらないぷっくりしたほっぺたを見ながら、僕はゆっくりと頷いた。
1ヶ月前の僕なら、きっと愛菜の言葉を信じなかった。
でも、この1ヶ月たらずで、僕は『キミコさん』や『赤塚さん』という、2人の幽霊に関わってしまった。妖怪の1匹や2匹、その辺で昼寝してても『まあいるよね』って笑って流せるほどには世間ズレしちゃったと思う。
「お兄ちゃんにまかせろ」
僕は愛菜が座るソファーに並んで座る。
いつもなら『狭くなるから座らないで』とむくれっ面で怒ってくる妹だけど、今日は何も言わず、涙が溜まった目を僕に向けている。
なんとかしてやらなくちゃ。
お兄ちゃんなんだから。
忘れていた使命感が、胸の奥底から湧き上がる。
「お兄ちゃんが、その『妖怪かまいたち』を見つけて、やっつけてやるよ」
「え、ほんと? 出来るの!?」
愛菜の顔に笑顔が咲いた。
「もちろんだよ。誰にも言ってなかったけど、僕はこの1ヶ月で、2人の悪霊退治に関わってるんだ。ほんとだぞ?」
僕は力強く頷く。
久しぶりに見たその花は、僕の決心を揺るぎないものにするには十分だった。
* * *
「はあ? ……あたしは手伝わねーぞ……」
翌日の放課後。2年8組の影山さんの席を中心に、いつも通り僕と松原さんが集まる。
僕が妹から聞いた話を2人に話すと、影山さんは面倒くさそうな顔で言った。
ちなみに先日の着せ替え大会で、影山さんが実はけっこう可愛いことがクラスメイトにもバレてしまったわけだけど、でもだからと言って影山さんが一躍人気者に成り上がるわけもなく、今まで通り陰気な感じで日々を過ごしている。
着せ替えがほんの数分で終わってしまったから、誰も写真や動画に証拠を残していなかった、ってのはある。これじゃ『影山さん、実はかわいいらしい』と広めようとしたところで、誰も信じてくれないだろう。
でもそもそも、影山さん自身がそういう急激な変化を望んでいるわけじゃなさそうだった。最近の影山さんは、初めてあった頃よりも優しい顔をするようになったし、しばらくはこのままでいいんじゃないか。
そんなふうに僕は思っている。
で、かまいたちに話を戻すけど、嫌そうな顔の影山さんを見て、僕は首を横に振った。
「ううん。影山さんに頼らなくても大丈夫、だと思う。最近、悪霊と対峙してわかったことがあるんだ」
僕がそう言うと、松原さんが「え? なになに!」と顔を近づけてくる。マジでかわいいから、やめてほしい……。
「影山さんや松原さんの経験を踏まえるに、悪霊は論破されると戦意を喪失するんだよ!」
「……は?……」
影山さんが怪訝そうな顔で僕を見る。だけど僕は、この理論に自信を持っている。
「ほらキミコさんの時はさ、影山さんの不幸自慢で戦意を失ったじゃん。赤塚さんの時も、松原さんが思い出の品を見つけてからは、憎しみが薄れたように見えた……」
「……で?」
影山さんはいつも以上にどんよりした目で僕を見ている。まるで僕が間違っているとでも言いたげな表情で。
「だから、悪霊や妖怪だってちゃんと話が通じるし、僕たちの常識だってある程度通じるんだ。今回だってさ、かまいたちが暴れている理由を見つけ出して、説き伏せてやれば、大人しくどこかに行ってくれるんじゃないかな!?」
僕は胸の前で握った拳に力を込める。
松原さんが「うんうん確かに、そうかも!」とあまり信用できない感じの軽い同意をしてくれる。
「……あっそ……。そんで、そのかまいたちには、何をどうすれば納得してくれるんだ……?」
「それを、小学校に忍び込んで探すんだよ」
「鍵閉まってんのに、どうやって入るんだ……? それに見回りの先生に見つかるだろ……」
「杉下小学校は僕の母校だからね。一階の理科室の窓は、棚で鍵が隠れてて閉められないのを知ってるんだ。それに、例の2年生の教室は警備室から一番遠いから、静かに行動すれば気づかれないはず」
意気込む僕を見て、影山さんは長い溜息をついた。
「本気なんかよ……クソが……」
「うん、僕は本気だ」
怯えながら僕を見る愛菜の顔が脳裏に浮かぶ。お兄ちゃんとして、僕は妹を不安から守ってやらなければいけない。
初めての登校の日、知らない世界に怯えている愛菜の手を、僕はギュッと握ってあげたんだ。
愛菜は今でも僕の妹で、僕はいつだって愛菜のお兄ちゃんなんだ――
「私も手伝うよ! 阿部くん1人よりも、2人の方が心強いでしょ?」
松原さんが僕の両手を握って何度も頷く。いやホントこの子、距離感が近すぎやしません? マジで困った子だよ。
「あ、ありがと……」
「私の時も助けてもらったから、そのお礼だよ! 情けは人のダメなやつ、だよ!」
「『情けは人の為ならず』な……」
影山さんは松原さんの言い間違いを指摘しつつ、神妙な顔で僕と松原さんを交互に見る。
松原さんに手を握られて、たぶん僕の顔は真っ赤っかだ……。影山さんは何か言いたそうだけど、そぶりだけで何も言わない。
しばらくしてから、根負けしたみたいに影山さんは呟いた。
「わかったよ……あたしも手伝うよ……。スケコマシはどうなったっていいけど、その……ニコリが危険な目にあうのは、あんまり嬉しくないし……」
言い方が引っかかるけど、影山さんがいてくれると何より心強い。こと悪霊に関して影山さんは最強なんだから。
決行は明日金曜の夜――そういう事になった。
* * *
そして、僕は後悔する事になる。
今まで悪霊と戦っても、なんだかんだで無事に帰って来れた事で、僕は完全に奴らを甘く見ていた。
悪霊は、妖怪は、この世ならざる世界の住人は――そんなに甘っちょろいもんじゃない。
完全に迂闊だった。