俺は閉じ込められている。
この軟弱で強固な檻の中に。
太陽の下、コスモスの花弁の上で、俺は運命の雌と出会い――そして離ればなれになった。
交わるはずだった俺と彼女の心と体は、巨大な怪物に手によって引き裂かれた。
檻の中で、与えられる餌達を捕食しながら、俺は彼女の事を思う。
弱り果て、餌さえ満足に獲れなくなっても、性懲りもなく俺は彼女の事を思い続ける。
やがて、俺の命は尽きた。
俺をこの檻に閉じ込めた奴らを呪いながら――
* * *
巨大なカマキリは翅を広げ、顔の前で鎌を構える。これは威嚇のポーズだ。お化けサイズになっても習性は変わらないらしい。
それに相対す影山さん。その背後から出現した銀髪の鬼は、カマキリの前に立ち、ゆっくりと両手を広げた。相手の虚勢をその両手で受け止めるみたいに。
2つの怪異が睨み合うその隙に、僕は松原さんの手を握って立ち上がらせた。でも視線は、銀髪の鬼を見つめたまま動かさない。
上半身をゆらゆらと揺らしていたお化けカマキリは、一瞬動きを止める。
そして次の瞬間――両腕の鎌が鬼めがけてせまる。
「ちっ!」
避けようとした銀髪の鬼だったけど、獲物を狩ろうとするカマキリの動きは半端じゃなかった。気が付けば鬼の右手は、鎌でがっしりと拘束されていた。
影山さんは顔を歪める。
一見すると大ピンチに見えるかもしれない。
確かにスピードに関しては、カマキリの方に分があるのかもしれない。
だけど僕は、銀髪の鬼の圧倒的なパワーを知っている。悪霊である『キミコさん』が具現化した巨大な蛇でさえ、難なく引きちぎり地面に叩きつけてしまう圧倒的な剛腕を知っている。
いくらデカくても所詮は昆虫。
影山さんの相手じゃない。
だよね、影山さん?
その――苦しそうな表情は、演技なんだよね?
鬼がカマキリの鎌を掴み引き剥がそうとする。
でも剥がせない!
いや、違う? 全力で引き剥がそうとしているはずなのに、鬼の手には
まるで、手加減で子供に華を持たせようとする大人。もしくは、紙で作られた石ころをさぞ重たそうに持ち上げる役者。
そんな不自然な手加減が、影山さんの鬼からは感じられた。
「影山さん! 舐めプしないで本気を出して!」
「うっせーな……、わかってるけど、力が出ねーんだよ……!」
力が出ない?
エナジードレインのようなものなのか? それとも麻酔薬のような何か? でも相手からそれらしき挙動は何一つ見当たらない。
いつものように陰キャエピソードで相手を打ち負かして……。
そこで、僕は気付いた。
影山さんは今まで、自分の『陰』で相手の『陰』を覆い隠す事で、悪霊を打ち負かしてきた。
影山さんかの口から、自分の人生に対する呪詛が溢れるほど、相手はその闇の深さに取り込まれていく。自身の抱えていた闇がいかにショボかったかに気付き、人生にわずかばかりの幸福を見出して、成仏していくのだ。
でもそれってつまり、
「影山さん! いつものように悪霊を言い負かせられないって事!?」
「クソが……イカれたバケモンに、話なんか通じるかよ……」
鬼が繰り出す弱々しい拳がカマキリの鎌を叩く。
そこに破壊の力はなく、柔らかなスポンジを鉄製の刃物にぶつけているようにさえ見えた。汚れが落ちて輝きは増すかもしれないけど、真っ二つにへし折れる力ではない。
動き回るその拳も、カマキリは一瞬で捕捉した。野生の捕食者が見せる研ぎ澄まされた反射神経に、所詮頭でっかちの人間が敵うわけない。
銀髪の鬼を完全に拘束したカマキリは、その三角形の顔を近づけ――割れ目から覗く刃物のような口で、鬼の首筋に噛みついた。
「やめろ! クソ野郎!」
影山さんは叫ぶ。
銀髪の鬼は全身をめちゃくちゃに振るわせ、その束縛から逃れようとする。でも、もがけばもがく程に、カマキリの鎌に刻まれたギザギザの刃は、その体に食い込んでいく。
影山さんは片手で頭を抑え、虚な目でお化けカマキリを睨みつけた。
カマキリは素知らぬ様子で、銀髪の鬼から肉を食いちぎると、ゆっくりと味わうように咀嚼している。
助けなきゃ――
そう心が叫んでいる。
怖い――
それと同時に、心は別の言葉も叫びだす。
二つの感情が僕の中で暴れ回り、頭の中を真っ赤に染めていく。
僕のせいだ。
妹にいいところを見せたいって気持ちだけで、なんの対策もしないまま勢い任せに突っ込んだから、こんな事になってしまったんだ。
なんとか……なんとかしないと……。
それなのに動けない。
靴の中の小石みたいな感情が邪魔をして、僕は足を踏み出せない。
「影山さん!」
僕はこのぐしゃぐしゃな感情を言葉に変えて叫ぶ。それで何が好転するわけでもないけど、ただ彼女の名前を叫ぶ。
片手で顔を押さえた影山さんが振り返った。
目尻の上がった鋭い目は、雲に遮られた三日月みたいにぼやけている。
恐怖と不安で――霞んでいる。
その目を見た時、僕の中の恐怖がすうっと薄らいでいくのを感じた。
お化けカマキリはたしかに怖いさ。
でもこいつに立ち向かう選択の先に、本当の恐怖は存在しないような気がした。
本当の恐怖ってのは、この状況で彼女を見捨てて逃げ帰った時に、自分の中から冷水のように湧き上がってくるものような気がした。
自分が、最低最悪な存在に成り下がってしまう恐怖――そっちの方は何倍も恐ろしいんじゃないか?
だから、僕はカマキリへと走った。
そして、その巨体を支えている2対の細い脚――細いとは言ったって近くで見ると鉄棒ぐらいの太さはあるそれを、僕は力任せに蹴り付けた。
スニーカーの靴底にカマキリの脚が食い込み、足の裏がじんわりと痛む。
カマキリはこちらを見ようともせず、目の前の獲物を食い尽くす事に余念がない。
僕の蹴りが大したダメージじゃないのはわかっている。でも今の蹴りで、こいつがいわゆる『見せたがり』の悪霊、あまつさえ実体すら持っている事に確信が持てた。
こいつには物理で干渉できる。
それだけわかれば十分だ。
策はある。ほんのちょっとした隙くらいなら、作る事が出来るはず。