僕はカマキリを背にして走り出した。
走りながら、リュックからレジ袋を取り出し、中身をぶちまけつつ廊下の隅にある水道を探す。
あった!
僕はレジ袋の口を広げ、その中に液体石鹸をガチャガチャとプッシュすると、今度は蛇口を全開にして水を注ぎ込む。
泡が溢れてパンパンになったレジ袋の口を縛って、カマキリを睨みつける。
やつと目があった気がした。
いや違う。カマキリの目がそう見える構造にになっているだけで、僕の事など歯牙にもかけやしない。
僕を無視しやがって。今に見てろよ。
「阿部くん! なにしてるの!?」
そんな松原さんの問いかけにも答えず、僕は再びカマキリの方へと駆けた。
昆虫の体の構造は動物と異なる。
例えば呼吸。
動物は横隔膜を伸縮させて空気を吸い込むけれど、昆虫にはそれがない。
昆虫は『気門』っていう小さな穴から空気を取り込んで酸素を得ているんだ。
子供の頃に図鑑で読んだ記憶だけど……。
カマキリの気門はお腹の横の小さい穴。
そこを塞いでしまえば虫は呼吸がし難くなる。
例えば、石鹸みたいな界面活性剤を泡立てて、その穴を詰まらせてしまえば……
僕は袋いっぱいに貯めた石鹸水を、カマキリの芋虫みたいな腹部めがけてぶちまける。
「どうだ虫ケラめ!」
そして僕は叫ぶ。
キョトンとした顔で僕を見るお化けカマキリ。
その機械のような無感情な目が、僕に向けられる。まるで、ここにきて初めて僕の存在に気付いたみたいな素振りだ。
でも次の瞬間、カマキリが身悶え始める。腹部をぐにゃぐにゃと蠕動させ、身体を支える4本の脚でめちゃくちゃに床面を引っ掻いている。
よし、効いてる!
力の抜けた鎌の隙間から、銀髪の鬼が滑り落ちた。
それと同時に、影山さん身体が膝から崩れ落ちる。僕は慌てて駆け寄り、彼女を抱き止めた。
「影山さん、大丈夫!?」
「ああ……ちょっとクラっとしただけだよ……」
抱きかかえた影山さんの身体は、思っていた以上に軽かった。軽くて、ガラス細工みたいに華奢だった。
『影山さんは悪霊に対しては無敵で最強』ってーー
僕はどこまで楽観的で、どこまで他人任せだったんだ?
こんな小さな女子に闘いの役目を押し付けて、自分自身は離れたところで応援するだけ……。
そんなの、ただのクズ男じゃないか!
手の中の影山さんを守るように、ギュッと抱きしめる。影山さんは身体を小さく縮こませ、僕と目が合うと固く目を瞑った。
「影山さんは、逃げて」僕は手の力を弛める。「石鹸水の効果は一時的だと思う。すぐに乾いてしまうから……」
「かぶちゃん!」
駆け寄ってきた松原さんに影山さんを預けて、僕はお化けカマキリを睨みつけた。
予想通り、僕の秘密兵器はすぐに無効化されているようだ。落ち着きを取り戻した奴は、機械のような顔面を僕に向けると、しきりに首を傾げている。
「カマキリ野郎! 次は僕が相手だ!」
物理が通じる相手なら、こっちにだって戦いようがある! 机をぶつけるとか、水道の水をぶっかけるとか、消火器で殴りかかるとか……がむしゃらに暴れ回れば、逃げ出す隙だって作れるかもしれない。
でもその前にまずはあの2人だ。
彼女達には一刻も早くこの場を離れてもらわないと。
横目で2人の方を見る。
少し離れたところで、恐怖と不安で顔をぐしゃぐしゃにした松原さんと、彼女に支えられながらも刀剣のような鋭い視線を崩さない影山さん。
「僕の事はいいから早く逃げて!」
言ってから『なんてあからさまな死亡フラグだ』って思う。
これが漫画やアニメなら、僕はヒロインの女子2人を生かすために死んでいく、名もなきモブ顔の少年だろうな。
ハマり役すぎで笑っちゃうよ。
場違いな笑顔を浮かべてしまう僕。
その目の前を何かが物凄い速さで掠め、床へと突き刺さった。
カマキリの鎌だ。
いくつもの刃が並んだ巨大な鎌……。
再び振り返ると、お化けカマキリの顔がすぐ近くにあった。命を切り取る悪魔のハサミみたいな口を、わしゃわしゃとしきりに動かしている。
あ、死んだ。
僕はそう確信した。
でも――
『お前、その雌と交尾したいんだろ?』
唐突に聞こえたその声は、やけに鮮明に響いた。
耳じゃなくて脳に直接語りかけるような声。悪霊特有の、漫画だったら集中線みたいな形の吹き出しで表現されそうな声。
「え? こ、交尾?」
どこからともなく投げかけられた、唐突な質問。意味がわからない。
『そう、男といったら交尾だろ、交尾』
その声と同時にお化けカマキリが頷いた。ここで初めて、この声はカマキリが発してるんだって気がつく。
「お前、喋れるのか……?』
『この学校で死んだダチ達の憎しみと叡智を、全て受け継いだムシキングだからな。言葉を理解するなんて造作もねーぜ』
奴は鎌を持ち上げ、先端で何かを指し示す。その方向を見ると、そこには呆気に取られた顔の影山さん。
『それよりお前、そんなに身体を張って守るって事は、あいつと交尾したいんだろ?』
「え? あ、いや、えええ!?」
『わかるぜ、お前の気持ち』
突然語り出したカマキリは、ここではない遠くを見つめ、ちょっとだけうなだれているようにも見えた。
『今のお前を見たら、思い出しちまったぜ。俺もお前と同じで、交尾したくてしょうがなかったんだ。やっとかわいい雌といい感じになってよ、あとちょっと、ってところまで行ったのに……てめーらクソ人間に捕まって台無しにされちまった!』
それはともすれば、それは魂の叫びのようにも響いた。
『俺はいろんな雌と交尾してハーレムを作りたかったんだ。それなのによ……。お前だったらわかるだろ? この俺の未練!』
嫌な魂の叫びだった。
「いやいやいやいや、わかんないよ!」
動揺する僕の目に、真っ赤に染まった影山さんの顔がうつる。
誤解だよ影山さん! 僕は交尾なんてしたいと思ってないし……、いやちょっとは思ってるかもしれないけど、それは男子として健全な事だよ! それにハーレムを作りたいなんてのは、これっぽっちも思ってないいから!
そう大声で弁解したいのに、頭が混乱していて上手く舌が回らない。
さっきまでの殺伐とした展開から、なんなんだよこの温度差は! 僕はカッコよくピンチを切り抜けるか、カッコよく命を散らすか、どっちかの流れだったじゃん!?
『嘘つくなって。男ならハーレムこそ至高だろ?』
「うああああ! 脳内の独白にまで勝手に反応するな!」
僕は頭を抱える。
「こ……交尾……」
影山さんは顔を真っ赤にして俯く。
そんな中、事態をイマイチ理解してないのか、あっけらかんとした様子の松原さんが口を開く。
「ていうかさ、話通じるんなら、かぶちゃんの鬼でやっつけられるんじゃない?」
あ、たしかに……。