『俺たち昆虫は、貴様ら人間に遊び半分で捕えられ、軟弱で強固な檻の中で、子孫も残せぬまま死んでいったんだ……』
お化けカマキリの口から語られる、虫達の悲痛な声。僕だって子供の頃、小さなの命を蔑ろにしてきた自覚がある。だからこそその言葉は、深く僕の胸に突き刺さった。
『だからよぉ……わかんだろ? 俺だって交尾したかったんだよ! なんで俺だけ、交尾出来ないまま死ななきゃなんねーんだよ!』
でも、こいつのフィルターを通すと、それも安っぽい嫉みに聞こえてくるんだよなぁ……。
シリアスなのか、そうじゃないのか、よくわかんない感じになっちゃって、頭がクラクラしてる僕の隣に、いつの間にか影山さんが立っていた。
僕と目が合うと「クソが……」と呟いてそっぽを向く。
長い前髪をかきあげると、怒りなのか恥ずかしさなのかわからないけど……ちょっとだけ潤んだ瞳に、月明かりが反射していた。
僕はドキドキしてしまう。
そして、正面切って向かい合う、影山さんとお化けカマキリ。影山さんのすぐ後ろには、筋肉隆々の銀髪の鬼が立っている。
僕は固唾を飲んだ。
第二ラウンドの幕が上がろうとしている。
『憎しみの力が強けりゃ強いほど、俺たち悪霊はその存在感を増すんだよ。現実世界にだって物理的に干渉できるようになるし、知能も上がるから言葉だって操れる。つまりよ、俺はそれだけ強大な悪霊ってこった』
「どれだけ……知性が上がってもよ……言ってる内容が低俗じゃ、バカにしか見えねぇんだよ……」
『俺の言葉が低俗だと? 交尾の悦びすら知らねぇガキが、調子こいてんじゃねーぞ!?』
「そういうのはな……みなまで語るもんじゃねーんだよ、クソが……」
影山さんの小さな顔と、カマキリの化け物じみた頭部が、触れ合うスレスレまで接近する。
不良同士……いや、陰キャと淫キャのメンチの切り合いだ!
僕はといえば、その気迫に押されて一歩、また一歩と後ずさってしまう。
さっきまでは、このカマキリと刺し違える気満々だったけど、強大なパワーのぶつかり合いを目の当たりにすると、それすらもおこがましい事だったと思い知る。
そして――
まばたきの間に、激しい衝撃音。
一瞬で銀髪の鬼とカマキリが交差し、組み合ってた。
カマキリの右鎌を左手で掴む銀髪の鬼。
鬼の右腕を鎌で締め上げるお化けカマキリ。
『俺は交尾したかった! いっぱい交尾したかたんだああああああああ!』
叫びととともにカマキリの鎌が軋みをあげ、全力で鬼の腕を締め付けているの。
しかし銀髪の鬼――影山さんは涼しい顔で、その猛攻を受け止めている。鬼が右腕に力を込めると、筋肉が山脈みたいに隆起して、カマキリの鎌を押し返す。
「コービコービうっせーんだよ……。あたしはなぁ……
影山さんの言葉、その意味に僕はハッとする。
この前イオーンで会ったクラスメイト達が、影山さんに向けていた意地悪な視線。
きっと影山さんは、誰かにほんのちょっとでも好意を抱くたびに、その感情を自分自身で握りつぶしてきたんだ。
自分なんかが誰かを好きになっちゃいけない。そんな感情を持ってしまえば、自分も相手も傷ついちゃうって……。
『ハーレムの夢を奪われた俺の絶望を、お前みたいなニンゲンのガキに理解できるはずがない!』
カマキリは頭を近づけ、ハサミのような鋭い口で銀髪の鬼に食らいつこうとする。
「欲しがりが……! 一人に愛してもらえりゃ、それだけで十分だろ……!」
影山さんは怯まない。
鬼が左手で右鎌を握り潰すと、カマキリの口から悲鳴が漏れた。
体液が飛び散り、床や壁に貼り付く。
『お前らのせいで! お前らのせいでえええええ!』
「うるせぇ……! ヤリサーパリピ、クソカマキリ……!」
絶叫をするカマキリの顔面に、銀髪の鬼の左腕が食い込んだ。眼球が潰れ、頭が明後日の方向に曲がる。
そして、身体を支えていた4本の足がふらつき――床へと崩れ落ちる。
「せっかくだから、教えてやるよ……」
へたり込むカマキリを見下ろして、影山さんは言う。
「たとえニンゲンに捕まらなくてもなぁ……てめーにハーレムを作る未来は、存在しなかったと思うけどな……」
『ウソをつくな! ニンゲンの邪魔さえなければ……俺はきっと――』
「……てめーらカマキリのオスはよ……交尾中にメスのカマキリに食われるらしいぜ……?」
『え……?』
カマキリのわしゃわしゃと喚く口が止まった。
少しの沈黙の後、カマキリは口から黄色い謎の液体を
『は……? 出まかせを言いやがって! そんなわけがねーだろ! 愛する虫が、愛する虫を食い殺すなんて、そんな不条理があってたまるかよ!』
「いや、それが本当らしいよ」
僕はスマホの画面をカマキリに見せた。
カマキリでは、メスが交尾中にオスを食べる「性的な共食い」と呼ばれる行動が観察されます――画面にはそんな検索結果が表示されている。
『ウソだ……俺はニンゲンにハーレムの夢を壊されたんだ……。激しい憎しみによって生まれた、復讐の鬼なんだ……』
「ニンゲンに捕まろうが捕まるまいが関係ねぇ……。お前らの種族にとって『ハーレムを作る』って夢自体が、残念ながら自然の摂理に逆らってんだよ……」
影山さんは頬を掻いた。
追い詰めた相手に手を差し伸べようとする時、影山さんは決まって照れくさそうな表情をする。
「外敵のいない檻の中で、餌を与えられながら余生を過ごす……それだって、案外悪くははない生き方だったんじゃねーか……?」
僕はプラスチックの檻の中で暮らす虫達の事を考えていた。
囚われの生活はたしかに不幸かもしれない。でも、そんな彼らに尊敬の目を向ける子供達だって、少なからずいたんだと思う。
愛とか、安らぎとか、自由とか。人生において何が一番幸せな事なのか……その答えは、僕にはまだわからないけど。
『子孫を残せぬまま死んじまう……それもまた、一つの生き方ってわけか……』
そしてカマキリはせせら笑う。
『ふざけんな! だったらそこの童貞野郎も道連れだ!』
唐突な叫び声。
その意味を理解する間もなく――気が付けば、僕に向けて振り下ろされた鎌を、銀髪の鬼が片手で受け止めていた。
「救えねえ虫ケラだ……」
影山さんが呟く。
「自分の不幸によ……他人を巻き込もうとした時点で……てめぇは救いようがねぇ加害者なんだよ……!」
鬼から繰り出されたいくつもの拳が、カマキリの硬い外殻に食い込み、炸裂する。
オラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラ!
鎌が千切れ、脚が弾け飛び、翅が千切れる。
オラぁああああああ!
ラッシュの勢いで浮き上がったカマキリは、そのまま廊下の端まで吹っ飛び、動かなくなった。
すげぇ。
やっぱり影山さんは最強だ。
「やった……んだよね?」
「ああ……多分な……」
緊張でガチガチだった身体から、一気に力が抜ける。それと同時に、この窮地を生き延びた喜びがジュワジュワと沸き起こり――僕は無意識に影山さんの両手を握っていた。
「影山さん、ありがとう!」
その手を上下にブンブンと振る。
影山さんは困った顔をした後、その手を強引に振りほどいた。
やっぱり、こんな面倒に巻き込んだくせに役立たずだった僕のことを、怒っているのだろうか。
「やめろよ」
僕に背中を向ける。
そして両手で自分の肩を抱く。
「だ、抱きしめたりとか……手を握ったりとか……そういうの、やめろよ……」
「え?」
「あたしなんかを助けようとするとか、そういうのやめろよ……」
小さな影山さんの声が更に小さくなる。
「かんちがいしちまいそうになるじゃねーか……」
影山さんの背中越しに、廊下の窓から月が見える。
この前はの夜は三日月だったけど、気がつけば半月へと移り変わっていた。
そんなどうでもいいような事にさえ、深い意味みたいなものを感じてしまう。それだけ夜の校舎は、寂しくて静かだった。