息が苦しい。
ここはどこだ? 暗い闇の中だ。どうして俺はここにいる。
俺は……死んだのか?
♢
住岡時男。三十四歳。
容姿普通、学歴平凡。趣味や特技も特になし。特筆すべし点なし。それが俺だ。
強いて言うならば二十四歳の時に両親が交通事故で亡くなったくらい。
でも、そんなことは特別不幸なことではない。
世の中にはもっと早くに親を失ったのに逞しく生きている人もいるだろうし、もっと厳しい環境で育った人だっているだろう。
大学を卒業して就職し、曲がりなりにも自立したタイミングで親を亡くした俺は声をかけづらい「可哀そうな人」であっても「特別な人」ではない。
そんな考えだからか、三十四歳になって「肺がん」と診断されたときも特別不幸だとは思わなかった。
というよりも自業自得。二十歳の時になんとなく初めてそのままやめられなくなった煙草が文字通り身を滅ぼした。
医者はやたら気を使って俺に病名を宣告したが、もっと絶望的なことは他にある。
「うう……煙草吸いてぇ」
真夏の炎天下。額にかいた汗をハンカチで拭った俺の口から漏れ出たのは熱さに対する文句などではなく、そんな一言だった。
肺がんを宣告されて早一か月。日課になった散歩中である。
手術は思いのほか呆気なく終わり、経過も良好ですぐに退院した。
職場に復帰こそまだしていないがこうしてゆっくり散歩を楽しめるくらいには回復した。
俺を苦しめているのは医者からの悪魔の宣告、「禁煙」の二文字だけである。
正直なところ生きるのにそこまで未練はない。苦しいのは嫌だし、死ぬのが怖いとも思うが大好きなものを我慢してまで生き続けたいかと言えば疑問が残る。
しかし「吸ったら合併症や感染症を引き起こして死ぬよ」という医者の脅し文句に屈し、大人しく言うことを聞いてしまうくらいに俺は小心者なのだ。
禁煙は苦しい。辛い。
頭の中がぼーっとするし、何でもないことでイライラする。集中力も切れる。
だから、猛スピードで突っ込んでくる車のクラクションに反応するのも遅れてしまったらしい。
♢
気が付くと真っ暗な闇の中にいた。
周囲を見てもここがどこだかわからない。そんな場所に立っていた。
息が苦しい気がする。
身体中が痛いような気がする。脳裏には迫りくる乗用車。ファミリーカーだったな。運転手は高齢な男性で明らかに慌てていた。車には高齢者専用のマークが貼ってあった。そこまで思い出せる。
確実に轢かれたはずだ。そして、きっと助かりはしなかったんだろうな。
俺は不思議とそれを受け入れていた。ここはきっと死後の世界だと誰に言われたわけでもないのに理解していた。
そして俺の考えを確証づけるかのように天から光の柱が下りてくる。
その柱の真ん中。上空からゆっくり何かが下りてくる。
白い翼、長い髪。女性だ。金色の髪をした、ネットで話題の国民的アイドルなんか霞んでしまうほどの美少女だった。
「住岡時男さん。残念ですがあなたは死んでしまいました」
透き通るような柔らかい声で女性は言った。
「ですが悲観することはありません。私は女神アーティア。あなたは神々の造りしもう一つの楽園、ヘヴンズへ転生する資格を得たのです」
女神アーティアはそんなことを言う。ちょっと待ってくれ、さすがに理解が追いつかない。
つまりあれだろうか、俺は話に良く聞く異世界転生の資格を与えられたということだろうか。
「あなたには可能性がある。その可能性を遺憾なく発揮してヘヴンズに良い効果を与えてくださることを期待します」
俺の困惑など無視してアーティアは話を進めていく。
この流れはあれだ。特別なスキルだとか能力を与えられて異世界でチート的な力を発揮する奴だ。
ラノベやアニメは昔よく読んだ。最近はあまり読めていなかったが、嫌いではない。
「あなたに女神の加護を授けます。それにより好きな望みを一つだけ叶えられます」
ほらな。きっとここで普通の奴は特別な力を貰うんだ。願い……か。思いつくのは一つだけだな。
「あ、ちょっと待ってください。『願いを増やせ』とか『女神の能力をすべて使えるように』なんてのは駄目ですよ。叶えられるのは明確なお願い一つだけです」
俺が願いを言いかけるとアーティアは先回りして忠告した。その顔がやけに得意げだ。
もしかすると前にそんな願いを言った奴がいたのかもしれない。
安心してほしい。俺は「好きな道具は?」と聞かれて「何でも出てくるポケット」と答えるよような輩とは違う。
明確な望みがある。俺の望みは……。
「煙草を……吸わせてくれ」
俺が願いを言うとアーティアは「へ……」と間抜けな声を出し、声と同じくらい間抜けな顔になった。
正直もう限界だった。このくらい死後の世界に来た時から、いやもっと前からだ。肺がんと診断されたから今の今まで続けて来た禁煙には無理があった。俺の身体がニコチンを欲している。
「死後の世界でも、別の世界に転生でもどっちでもいい。一回死んだ俺はもう肺がんじゃないんだよな? 煙草を吸っても合併症やら感染症なんて恐ろしいものは発症しないんだよな? だったら、俺に煙草を吸わせてくれ!」
俺がそう言うとアーティアは明らかに困惑した顔をしていた。