暑いくらい晴れた日に、私は初めて、賤民の村に足を踏み入れた。
開墾された畑と、石と土壁で構成された小さな家々。それらが木のない場所を選んで建てられているから一見乱雑に見えるけれど、ただそれだけだ。充分人らしい生活が営める集落になっている。
驚いたことに、川も引き入れているみたい。
場所から考えれば、私が利用した場所よりももう少し上流から分岐させているんでしょうね。川沿いに作られた小屋に水が汲み上げられているのも、なにか理由がありそう。
領内とはまったく違う生活感にワクワクしていたら、私たちに気づいた村人が声を上げた。
「エリアス……!? エリアスじゃないか! お前、治ったのか!!」
「おい見ろ、エリアスだ! ゴーストじゃないぞ、ちゃんと足がある!」
「ごめんなエリアス、みんなもうお前のことは諦めて……墓を作る準備まで始めてたんだ」
最初に聞こえたのは、エリアスの帰還に驚く声。エリアスを目にした人はみんな駆け寄って、信じられない様子でエリアスを触ったり、抱きしめたりして歓迎する。
……みんな、エリアスが無事だったことを心の底から喜んでいた。ここではきっと、村人みんなが家族なんだ。
エリアスも笑ってそれを受け入れ、自分も死ぬと思ってたんだ、なんて話している。
見ているだけでなんだか暖かくなる光景を眺めていると、エリアスと話していた男性と目が合った。
「なぁエリアス、あの子は……?」
「あぁ、ごめん! この子はティアナ、新しくこの森に来たんだ。家を探していた時にあの小屋を見つけたらしくて、──オレを看病してくれた」
「ティアナと申します。見てのとおり元は貴族ですが、両親から疎まれていることを知り、自ら森に参りました」
カーテシーでの挨拶を見せると、四方八方から歓迎の声が聞こえてきた。
貴族の礼儀作法に物怖じしない人が多いみたいだし、エリアスが貴族の賤民の扱いについて話していたことを考えると──この村に、私のような元貴族がいるのかもしれない。
「ようこそティアナ。なにもない村だが、仲間が増えるのは大歓迎だ! 私は一応ここで村長のまねごとをしている、ブロルという中年男でね。エリアスを助けてくれて本当に感謝する。あの状態のエリアスを回復させられたということはもしや、治癒魔法が付与されたアイテムを持ってるのかな?」
「いいえ、治癒に関するものはなにも。ただ、少々変わった心得があるんです」
ブロルさんは中年と名乗ったけれど、すらりとして筋肉質な体形はどう見ても若々しい。きっとご謙遜なんでしょうね。
濃いブルーの髪を揺らしながら頷いたブロルさんは、そうかと笑っただけで、その場で詳細を聞こうとはしなかった。
「困ったことがあったらなんでも聞いてくれ。もちろん、村の連中はみんな優しい連中ばかりだけどね」
「ありがとうブロルさん。……じゃあ早速なんだけど、私が住んでもいい場所はある
? 一人一軒お家を持っているわけでもないでしょうし、どなたか私と暮らしてもいいという人がいると助かるんだけれど」
「もちろん、家のことは心配しなくても大丈夫だ。だけどまず、君にどんな場所がふさわしいのか、お伺いを立てなきゃならない」
「お伺い……?」
森で生きる賤民を統治している人がいる、ということかしら。
お父様たちと話す機会もなかったから、政治の話はおばあ様から聞くしかなかったけれど──そんな話は聞いたことがない。
「元貴族の方ですか? なら、よほど高位の……」
「いやいや、そういう人じゃないよ。詳しいことは言えないけれど、会えばどういう相手かすぐに分かるさ。領民でもないし賤民でもない、ちょっと特別な相手でね。疲れているなら、一度休憩してから向かおうと思うんだが──」
「いいえ、疲れはまったく。大事なことなら早く済ませたほうがいいと思いますし、今からでも大丈夫です」
「そう? それなら今から行こうか」
ついておいでと言われるまま歩き出しつつ、エリアスを見返る。
ニコニコと笑って手を振るばかりで、心配している様子はない。ほかの村人たちも同じ反応だ。
となると、危険な相手ではないんでしょうね。
話が読めないから少し恐怖心はあるけれど、いざとなれば鞄に入っているものを投げつけながら走れば、逃げられるでしょう。たぶん。
ブロルさんは村から離れ、どんどん森の奥へと進んでいく。まだ日が高いはずなのに、高い木や切り立った丘も近い場所にあるからか、妙に暗い場所だった。
……午前中に来ることにしてよかったかもしれない。もしこんな場所で日暮れを迎えたりしたら、それこそあの大きなコウモリの魔獣に出くわしてしまう。
そんなことを考えながらも背筋を伸ばして歩いていた私の前に、やがて大きな洞窟が口を開けて待っていた。
「……えっと、ここって」
「お相手はこの中だ。怖がらずに、今みたいについておいで。決して大きな声は出さないようにね」
……いやな予感しかしない。
それでも、サクサクと先に進んでいってしまうブロルさんに置いて行かれまいと、あわてて追いすがる。洞窟の中はうっすらと明るい程度で、視界が悪い。さらにいえば、足元もなんだかぬかるんでいる気がする。
ついでに言うと、臭い。
まさかな、だけどな、なんていろいろな考えを巡らせて歩いていると、ほどなくしてブロルさんが立ち止まった。
「慈悲深い森の管理者、われらの偉大な庇護者よ。新たな住人と共にご挨拶に伺いました」
静かな声と、きれいなボウ・アンド・スクレープ。
まるで国王陛下に謁見する貴族の振る舞いに、私もあわててカーテシーの姿勢をとった。
視線を伏せ、上半身を屈める。
するともともと薄暗かった洞窟の中に、さらに濃い影がかかった気がした。
「死を待つばかりだった幼体のオスを、薬草を使って治したメスだな。……魔法に頼るばかりだった愚か者どもが、ようやくこの地の恩恵を正しく使う気になったらしい」
小馬鹿にするような口調にカチンと来て、礼儀を失するけれど、目線だけ上げる。
……私たちの前に足はない。
え、足がない!?
思わず勢いよく顔を上げると、狐に似た毛むくじゃらのお顔と大きな目が、やっぱり嘲笑するように私を見ていた。
天井から釣り下がった状態で。
「……嘘でしょ」
王様だ。
私があの日見た、この森に住む魔獣の王様。巨大なコウモリ。
それが今、ブロルさんのきれいなお辞儀を前に、悠然と吊り下がっている。
「嘘とは心外だな、ヒトの幼体のメスよ。お前がこの森に足を踏み入れた瞬間から、われらはお前をずっと見ていた。しかしこの地に巣を持ちたいというのなら、お前の持つ性質、気性、そのすべて。私に見通させるがいい」
広がった大きな羽が、私を誘う。
蠱惑的で危険を感じずにはいられない闇色のそれに、私はもう一度、嘘でしょと笑うしかなかった。