まずは誰から説得するべきか。
自分の欲望の世界から帰ってきた私はまたカジノのような場所をただただ歩き回り、帰るプランを立てていた。
ここから帰る為にはここにいる全員が帰りたいと思えなければならない。
私でさえおそらく1週間近く自分の欲望から抜け出せなかったのだ。
欲望に忠実すぎて魔界を滅ぼすと予言されている5兄弟たちがそんな簡単に己の欲望を手放してくれるとは思えない。
不安しかないが、この状況で一番頼れて、正気を保っていそうな人物に私は1人だけ心当たりがあった。
なので私はまずはその人物の元へと行くことにした。
*****
「随分自分の欲望を楽しんでいたみたいだな」
図書館へやって来た私を見てヘンリーがおかしそうに笑う。
私がこの状況で頼れると判断した相手はヘンリーだった。
ヘンリーはそもそも私と一緒でここへの長居を反対していた。
ヘンリーなら帰りたいと思っているはずだ。
「…まぁ、帰りがたくなるほどには楽しかったよ」
「そうか。で、帰りたくなったのか?」
「最初からそのつもりだったんだけどね」
「この本の呪いはなかなかすごいだろう?まして人間の君が抗えたこと自体に俺は驚いているところだ」
苦笑いを浮かべる私をヘンリーが興味深そうに見つめる。
「人間は欲望に弱い生き物だ。ここはそんな欲望を満たす世界。普通の人間ならここから帰りたいなんて思えない」
面白いものを見るようなヘンリーの目。
全ての人間を見下している気持ちと私への意外性がひしひしと伝わってくる。
…あまりいい気分ではない。
「ヘンリーは帰りたい?」
気を取り直してヘンリーへ私は問う。
ここは欲望の世界だ。
最初こそ帰りたいと願っていた私でさえ飲み込まれてしまった。
ヘンリーも私と同じだったが、今はどうなのだろうか。
「読みたいものは全て読み終えたし、俺がいないことによって、テオ…いや魔王様にこれ以上の迷惑はかけられない。だからもう帰らないとな」
ヘンリーの答えに不安もあったが、その必要はなかったようだ。
ヘンリーは不敵に私にそう言って笑った。
「よかった。じゃあ次は誰の説得をしようか…」
正直ここからが難しいと思う。
残りの4人は全員望んでこの欲望の世界を楽しんでいる。
そんな4人全員を帰りたいと思わせる為には相当頑張らねばならないのではないのだろうか。
「そんな顔をするな、咲良。エドガー、クラウス、バッカスならきっとすぐに帰りたいと言うだろう」
不安そうな私にヘンリーは変わらず不敵に笑っている。
ん?帰りたい?すぐに?
あの欲望が具現化したようなエドガー、クラウス、バッカスが?
「本当に?ヘンリーには悪いけど全然信じられないんだけど…」
「間違いない。言い切ってもいい。だが…」
「だが?」
「ギャレット。アイツだけは俺の手でも追えないな」
「…え」
今まで保たれていたヘンリーの不敵な笑みが、困ったような表情へと変わる。
ちょいちょいちょい。
ヘンリーがこんな顔するってギャレット本当にやばそうだな。
*****
それからヘンリーと2人でエドガー、バッカス、クラウスと順番に会いに行き、魔界へ帰ろうと説得した。
結果は全員その場ですぐに「帰りたい」と頷いた。
理由としてはエドガーは、
「飽きた。絶対に勝てるギャンブルなんてスリルがなくて楽しくねぇ。リスクのねぇギャンブルなんざギャンブルじゃねぇよ」
と退屈そうに、
バッカスは、
「空腹こそが最高のスパイス。空腹になれないのがこんなにも味気ないなんて思わなかった」
と残念なそうに、
クラウスは、
「ここじゃなくても僕はいつでも褒め称えられる存在だし、何よりみーんな僕の思い通りでつまんない。刺激が足んなーい」
と、つまらなそうに言っていた。
まさか本当に簡単に頷くとは。
ヘンリーの言うことに間違いなしだ。
だからこそ最後の説得の相手、ギャレットへの説得に不安が募った。
ヘンリーに手に負えないと言わしめたギャレットだ。
エドガー、バッカス、クラウスのようにすぐに「帰りたい」と言ってくれるとは思えない。
〝立ち入り禁止!byギャレット〟と書かれた扉、つまりギャレットの部屋の前までついにやって来た。
「…アイツ帰りたがるかと思うか?」
ギャレットの部屋の前でエドガーが難しそうな顔をしている。
「えー。帰りたがらないでしょ。バッカスもそう思うでしょ?」
そんなエドガーに答えたのは苦笑いを浮かべているクラウスだ。
「思う。ヘンリーは何か考えがあるのか?」
無表情だがバッカスも明らかに諦めている様子だった。
「…考えならある。まあ、全て咲良の力量次第だがな」
バッカスに話を振られてヘンリーがいつものように冷たく、そして不敵に笑い、私を見つめる。
…わ!私!?
いつの間に私にそんな大きな責任が…。
ヘンリーに急に与えられたプレッシャーを感じながらも私はエドガー、バッカス、クラウス、ヘンリーを引き連れて、ギャレットの部屋の扉を開けた。
「…ギャレットぉ」
「咲良!」
緊張でうまく笑えているかわからないが、何とか笑顔でソファに座っているギャレットに近づく。
ギャレットはそんな私を見て嬉しそうに笑った。
「…?」
あれ?
まるで今私1人だけのような態度のギャレットに違和感を覚える。
ここにはヘンリーたちと来たはずなのに。
だが、何故か私の周りには誰の気配もない。
そう思ってくるりと後ろを振り向くと扉の向こうで表情を歪めているヘンリー、焦っている様子のエドガー、無表情だが心配そうにこちらを見ているバッカス、面白そうにこちらを見ているクラウスの姿が目に入った。
え?何故誰も入ってきていないの?
「何しているの?早くみんなも中へ…」
「入れないよ」
ヘンリーたちを呼ぼうとすると背後から酷く冷たく、だが、どこか楽しそうな様子のギャレットの声が聞こえてきた。
「…入れない?」
「そう。ここは俺の欲望の部屋だよ?俺が認めた同志…つまり咲良しか入れる訳ないじゃん」
「…え」
ギャレットの説明が終わると同時に誰も触っていないギャレットの部屋の扉がゆっくりと閉められた。
え。
『…考えならある。まあ、全て咲良の力量次第だがな』
数分前、ヘンリーが私にプレッシャーを与えたあの言葉が頭の中で木霊する。
本当に私の力量次第ではないか。
ヘンリーはこうなることがわかっていたのか。
「…咲良、ずっと待ってよ?同志のくせに遅すぎ」
ゆっくりと振り向けばソファに来いと手招きするギャレットの姿が目に入る。
え。ギャレットと帰る気微塵もないじゃん。
ギャレットのところへ恐る恐る近づき、私はとりあえずギャレットの横へ腰を下ろした。
「咲良に見せたいアニメがあるんだ。きっと咲良なら気に入ってくれるから。あと新作のゲーム。これすっごく面白いよ?俺なんてここ2日くらい寝ずにずっとこのゲームしているし。ああ、マンガとかもどう?一緒に読もう。らぶ☆さばのまだ発売されていない新刊まであるんだよ」
「…」
私が隣に来た瞬間、ギャレットが興奮気味で私に話し始める。
やっぱり帰る気がない!
「…ギャレット」
「何?咲良はやっぱりらぶ☆さばの新刊が気になった?」
「いや…」
ものすごく言いづらい。
キラキラ笑顔のギャレットに期待に満ちた目で見られて心が酷く痛くなる。
これから私はギャレットを間違いなく傷つけてしまうから。
でも言わなければ。
私は魔界へ帰って、最終的には人間界へ帰りたいのだから。
躊躇なんてしていられない。
「…ここから帰ろう」
「…は?」
「ここじゃなくてもアニメもマンガもゲームもあるよ?だから一緒に…」
私の言葉を聞いた途端、ギャレットから表情が抜けていく。
先程のキラキラ笑顔から無表情へ、そしてその表情は怒りの表情へと変わった。
「ここならこの部屋から出なくても生活ができる。誰かに後ろ指を指されずにずっとオタ活を堪能できる。幻のゲームやまだ世に出ていないアニメ、マンガ、そんなものまで手に入る世界はここしかない。咲良は俺の同志でしょ?そんなことも言われないとわからない訳?」
「…あ、いや」
「咲良だからこそこの部屋に入れたのに。まさかそんなことを言うバカだとは思わなかったよ。俺の同志なのに恥ずかしい」
「…それは、その」
「頭冷やして来なよ?冷静じゃない。もっとこの世界のメリットを考えて?俺の同志ならできるでしょ?それともバカだからできない?」
「…ギャレ」
「ちゃんとわかるまで俺の部屋に入って来ないで」
私に喋る隙を与えずに捲し立てるように喋り続けたギャレットは最後にそう言って私を部屋の外へと放り出した。